、庄太。あれを拾って来てくれ」
「なんです」
「あの橙《だいだい》よ」
根太板を剥がれた床下《ゆかした》は、芥溜《ごみた》めのように取り散らしてあった。そのなかに一つの大きい橙の実が転げているのを拾わせて、半七は手に取って眺めた。橙には龍という字があらわれていた。近い頃に書いたと見えて、墨の色もまだはっきりと読まれた。
それが火伏せの呪禁《まじない》であることを半七は知っていた。橙に龍という字をかいて、大晦日《おおみそか》の晩に縁の下へ投げ込んで置くと、その翌年は自火は勿論、類焼の難にも逢わないと伝えられて、今でもその呪禁をする者がある。おそらく龍が水を吐くとか、雨を呼ぶとかという意味であろう。この橙のまだ新らしいのを見ると、去年の大晦日に投げ込んだものらしい。その「龍」という字に見覚えがあると、半七は思った。
「ここの家《うち》は誰だ」
「夜蕎麦売りの仁助で、その隣りが明樽《あきだる》買いの久八です」と、庄太は答えた。
「隣りにも橙があるか無いか、探してくれ」
庄太は芥をかき分けて詮索したが、隣りの床下には獲物がなかった。内へはいると、庄太の女房も出て来た。ひと通りの挨拶の済んだあとで、半七はかの橙を手の上に転がしながら訊《き》いた。
「この龍という字は、なかなかしっかり書いてある。仁助とかいう奴が自分で書いたのじゃああるめえ。誰に頼んだのか、知らねえか」
「表の白雲堂ですよ」と、女房が口を出した。
表通りに幸斎という売卜者《はっけみ》が小さい店を開いていて、白雲堂の看板をかけている。夜蕎麦売りの仁助はその白雲堂にたのんで、橙に龍の字をかいて貰ったのであると、彼女は説明した。
「白雲堂……。そりゃあどんな奴だ」と、半七はまた訊いた。
今度は庄太が代って説明した。白雲堂の幸斎は五十二三の男で、ここに十年あまりも住んでいる。自分はよくも知らないが、うらないは下手《へた》でもないという噂である。幸斎は独り者で、女房子《にょうぼこ》は勿論、親類なども無いらしい。酒を少し飲むが、別に悪い評判もない。近所の者にたのまれて、手紙の代筆などをするが、これも売卜者のような職業としては珍らしいことでもない。要するに白雲堂は世間にありふれた売卜者という以外に、変ったことも無いらしかった。
「そこで、その龍の字に何か引っかかりがあるのですかえ」と、庄太は訊いた。
「むむ。すこし
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