で、彼女は真っ蒼になってわが家に逃げ込んだ。
「今そこを年さんが通った……」
「ばかを云え」と、亭主の甚蔵は叱った。
 コロリで死んだ年造は焼き場へ送られて、幾日かの後に骨揚《こつあ》げをして、近所の寺へ納めて来たのである。それがここらを歩いている筈がない。しかも女房は確かにその姿を見たと云うのである。それを聞いて、隣りの笊屋の女房も顔色を変えた。
「それじゃあ年さんの幽霊に違いない」
 悪疫が流行して、そこにも此処にも死人の多い時節には、とかくに種々の怪談が生み出されるものである。笊屋では女房ばかりでなく、亭主の六兵衛もそれを信じて、コロリで死んだ年造の魂がそこらに迷っているのであろうと云った。その噂が表町まで伝わった時、年造とは壁ひとえの隣りに住んでいる煙草屋の大吉もこんなことを云い出した。
「実はわたしも年さんの姿を見た」
 こうなると、幽霊の噂はいよいよ大きくなって、関口屋の長屋には年造の幽霊が毎晩あらわれるなどと、尾鰭《おひれ》を添えて吹聴《ふいちょう》する者もあった。さなきだに、コロリの噂におびえ切っている折柄、かむろ蛇や幽霊や、忌《いや》な噂がそれからそれへと続くので、こ
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