も断わらずに、年造はそこを立ち去ってしまいました。
 こんにちならば、それで済むわけは無いんですが、前にもいう通りの混雑ですから、誰も構わない。幾日かの後に骨揚《こつあ》げに行って、年造の灰を拾って来たんですが、勿論それは人違いで、誰の骨を拾ったのか判りません。大コロリの時には、こんな間違いが幾らでもありました」
「それで年造は生き返ったんですね」
「一旦コロリで死にながら、また生き返りました。不思議といえば不思議です。或いは真症のコロリでは無かったのかも知れません。年造は焼き場を立ち退いて、それから何処にどうしていたのか、死人に口無しでよく判りませんが、なにしろ骨揚げが済んだ後で、或る晩ふらりと帰って来ました。そうして、隣りの大吉の家へ顔を出すと、大吉も一旦は驚いたが、生き返ったわけを聞いて先ず安心した。しかし安心できないのは、湯島の人殺しが露顕して、善八が召し捕りに来たことです。死んでしまえばそれっきりだが、生きて帰ると剣呑《けんのん》だから、大吉は年造に注意して、ひとまず万養寺の親父のところへ忍ばせました。
 相長屋の甚蔵の女房が幽霊を見たというのは其の時のことです。幽霊でないと云っては面倒だと思って、大吉も一緒になって幽霊の噂をひろめていると、又その最中に笊屋の女房が変死をする。これはお由を殺した蝮が関口屋の裏手へ逃げ出して、そこらを這い廻っていたのか、それとも別に訳があるのか、その頃の医者にはよく判らないので、いろいろの噂も立つことになるんです。そこへ又、関口屋のコロリ騒ぎ、それからそれへとよくも変事の続いたものですが、女房と小僧のコロリは誰の仕業でもなく、これは自然の災難で仕方がありません。
 大吉は煙草屋であり、殊に関口屋へも出入りをしているので、次右衛門とも心安くしている。その関係から年造も大吉に連れられて行って、次右衛門と知り合いになっていました。しかし湯島の人殺しと関口屋の一件とは全く別問題で、湯島の方は年造と大吉の二人、関口屋の方は、次右衛門とお由と大吉の三人、それぞれに役割りが違っているわけで、双方掛け持ちは大吉だけです。上方生まれの男娼揚がりなどというものは、忌《いや》にねちねちしていて、肚《はら》のよくないのが往々ありました」
「大吉と年造と共謀で、次右衛門を殺したんですか」
「お由が死んでしまって、かむろ蛇の一件は失敗しましたが、次右衛門が因縁をつけて関口屋から金を取る。それを大吉も目当てにしていたんですが、さてその談判がまとまって、いよいよ六百両の金を受け取ると、次右衛門はみんな自分のふところへ入れて、大吉には一文もやらない。お由が死んだ以上、大吉なぞにはもう用が無いという顔をしている。それでは大吉も不承知です。おれに相当の分け前をくれなければ、関口屋へ行っていっさいの種明かしをすると嚇かしたが、次右衛門は鼻であしらって、どうとも勝手にしろと空うそぶいている。せめて百両くれろと掛け合ったが、それも肯《き》かない。とうとう十両で追っ払われてしまったので、大吉は残念でならない。万養寺に隠れている年造と相談して、いわゆる最後の手段を取ることになりました。
 尤もそれまでには、年造も下谷へこっそりとたずねて行って、大吉のために口を利いてやったんですが、次右衛門はどうしても承知しない。その上に、湯島の一件を薄々気取っているような様子も見えるので、いよいよ助けては置かれないということになったんです。そこで九月二十日の夜なかに、年造が裏口から忍び込む。その露路は抜け裏になっているので、こういう時には都合がいい。安普請《やすぶしん》の古家ですから、年造は何の苦もなしに台所の雨戸をこじ明けてはいる。例のごとく、大吉は外で見張り番を勤めていました。
 大吉は現場を見ていないというので、詳しいことは判りませんが、年造は小刀のような物を持って、次右衛門の寝込みを襲って、思い通りに相手を仕留めて、さてその金のありかを探すと、仏壇の抽斗《ひきだし》に百両、ボロ葛籠《つづら》の底から百両、あわせて二百両だけは見付け出しましたが、残りの四百両の隠し場所がわからない。そのうちに近所の者が起きて来るらしいので、怱々《そうそう》にそこを逃げ出して、二人は無事に牛込へ帰りました。
 目あての六百両は残念ながら二百両しか手に入らない。それでも年造は正直に山分けにして、大吉も先ず納得したんですが、その親父の忠兵衛も悪い奴、その山分けの百両を年造に取られるのが惜しくなって、せがれの大吉をそそのかし、年造が疲れて寝ているところを絞め殺して、百両を取り上げてしまいました。死骸は寺の裏手の草原に埋め、ほとぼりの少し冷めた頃に、親子は二百両を持って、故郷の大阪へ帰るつもりでした。
 死骸は夜の明けないうちに埋めたんですが、この辺には野良犬が多い。そ
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