を掻き切って死んでいた。
 そのうちに、又こんな噂をする者もあらわれた。
「男は近所の浅井さまの御子息らしい。女は三河屋のお信だ」
 前にも云う通り、二つの死骸は早くも取り片付けられてしまったので、それらの事も結局は噂ばかりに留まったが、その噂の嘘でないことを半七は知っていた。
「おい、幸。飛んでもねえ事になってしまったな」
「まったく驚きました。お信を早く探し出せば、こんな事にゃあならなかったのですが……」と、幸次郎も残念そうに云った。
「それに浅井の屋敷もよくねえ。今じゃあ家督を相続している小太郎という人が、二、三日前から家出しているのを黙っていることはねえ。八丁堀の旦那衆の方へ内々で沙汰をして置いてくれりゃあ、なんとか用心の仕様もあったものを……。そうは云うものの、それからそれへと悪い事つづきで、屋敷の方でも面目ねえから、旦那方へは沙汰無しで、内々そのゆくえを探していたのだろうが……。もうこの上は仕方がねえ。三千石の屋敷も潰《つぶ》れる」
「潰れるでしょうね」
「先代の主人の水死は不時の災難としても、又ぞろこの始末だ。所詮《しょせん》助かる見込みはあるめえよ」と、半七は嘆息した。「考えてみると、おれも悪かった。このあいだ小梅の長五郎の話を聴いた時に、すぐに旦那に知らせて置けばよかった。そうしたら、旦那の方から浅井の屋敷へ内通して、若主人の出入りを厳重に見張らせたかも知れねえ。お屋敷のお名前にもかかわる事だから、決して他言してくれるなと長五郎に泣いて頼まれたので、おれもなんだか可哀そうになって、今まで口を結んでいたのが却っていけなかったようだ。この商売は涙もろくちゃあいけねえな」
「近頃こんなドジを組んだことはありません。そこで、親分。これからどうします」
「まだこれで幕にゃあならねえ。お信が生きていた以上は、千太もどこから這い出して来るか判らねえ」
「それじゃあ、やっぱり深川を見張っていますか」
「まあ、そうだ。寅吉の家《うち》の近所を見張っているほかはあるめえ」
 寅吉は独り者であるから、家族について調べるという術《すべ》もない。近所の者が集まって投げ込み同様の葬式を済ませたので、その家は空店《あきだな》になったままである。それを知らずに、千太が忍んで来ることが無いとも云えない。それを目あてに張り込んでいるのである。
「おめえと庄太は気長に深川の番をしていてくれ」と、半七は云った。「あいつも亦ばっさり[#「ばっさり」に傍点]やられてしまった日にゃあ玉無しだ」
 幸次郎を出してやった後、半七は又しばらく考えていた。武家屋敷に係り合いの仕事は元来面倒であるとは云いながら、今度の一件は万事が喰い違いの形で、とかくに後手《ごて》になったのは残念でならない。浅井の屋敷に瑕が付いても構わないから、事件の正体を突きとめてくれと、奥さまは半気ちがいになって頼んだそうであるが、その屋敷も所詮潰れるのであろう。思えば奥さまは気の毒である。せめてはその望み通りに、この事件の顛末を明らかにして、奥さまに一種の満足をあたえるのが自分の役目であると、半七は思った。
 そのうちに、彼は何事かを思いついて、ふらりと神田の家を出た。二十八日の宵である。きょうの春雨も其の頃には晴れたが、紗《しゃ》のような薄い靄《もや》が朦朧《もうろう》と立ち籠めて、行く先は暗かった。大通りの店の灯《ひ》も水のなかに沈んでいるように見えた。半七はその靄に包まれながら、築地の方角にむかった。
 南小田原町へ辿り着いて、船宿の三河屋を表から覗くと、今夜は軒の行燈をおろして、商売を休んでいるらしかった。隣りの竹倉という船宿で訊くと、お信の死骸は検視が済むや否や、すぐに下谷|稲荷町《いなりちょう》の女房の里方へ運んで、今夜はそこで内々の通夜《つや》をするらしく、三河屋の家内はみな下谷へ出て行って、亭主の清吉ひとりが留守番をしているとの事であった。
 半七は再び三河屋の店さきに立って声をかけると、奥から亭主が出て来た。清吉はもう四十以上の頑丈そうな男で、半七を見て、仔細らしく顔をしかめたが、又すぐに打ち解けて挨拶した。
「親分でございましたか。まあ、どうぞこちらへ……」
「どうも悪いことが続いて、お気の毒だね」と、半七は店さきに腰をおろした。「そこで清吉。今夜は御用で来たのだから、そのつもりで返事をしてくれ」
 清吉は形をあらためて、無言でうなずいた。
「早速だが、おめえに訊きてえことがある。姪のお信は先月の一件以来、小ひと月のあいだ何処に忍んでいたのだね」
「存じません」と、清吉ははっきり[#「はっきり」に傍点]と答えた。「実は何処から出て来たのかと、わたくしも不思議に思っている位でございます。小ひと月も便りがありませんので、死骸は遠い沖へ流されてしまって、もう此の世にはいないも
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