してね」
「なんだ。馬鹿に早えな」
顔を洗ったばかりの半七が茶の間の長火鉢の前に坐り直すと、幸次郎は直ぐに話し始めた。
「実は庄太と手分けをして、わっしは築地の三河屋の近所に張り込んでいると、ゆうべのかれこれ四ツ(午後十時)頃でしたろう。あの船宿から頬かむりをして出て行く奴がある。小半町ばかり尾《つ》けて行って、本願寺橋の袂でだしぬけに『おい、兄《あに》い』と声をかけると、そいつはびっくりしたように振り返る。よく見ると、まんざら知らねえ奴でもねえ、深川の寅という野郎で……」
「深川の寅……。どんな奴だ」
「やっぱり船頭で、大島|町《ちょう》の石置場の傍にいる寅吉という奴です。船頭といっても、博奕が半商売で、一つ間違えば伝馬町《てんまちょう》[#「伝馬町《てんまちょう》」は底本では「伝馬町《でんまちょう》」]へくらい込むような奴で……。そいつが三河屋から出て来たから、こりゃあ詮議物だと思って、いろいろに膏《あぶら》を絞ってみたのですが、友達の千太をたずねて来たと云うばかりで、ほかにはなんにも云わねえのです。千太は居たかと訊くと、このあいだから姿を隠しているので、三河屋でも探していると云うのです。なんの用で千太をたずねて来たと云うと、例の一件以来、大島町の方へも顔も見せねえので、どうしているのかと案じて来たと云うのです。いつまで押し問答をしていても果てしがねえから、一旦はそのまま放してやりましたが、あとでよくよく考えると、千太をたずねて来たと云うのは嘘で、実は千太の使に来たのじゃあねえかとも思うのですが……」
「そうすると、寅という奴は千太の居所《いどこ》を知っているわけだな」
「そうです。いっそ挙げてしまいましょうか」
「まあ、急《せ》くな」と、半七は制した。「迂濶に寅の野郎を引き挙げると、肝腎の千太が風をくらって、どこかへ飛ばねえとも限らねえ。まあ、当分はそのままにして置いて、出這入りを見張っていろ」
「ようがす」
幸次郎は引き受けて帰った。半七はそれから牛込の堀田、京橋の須藤、深川の菅野の屋敷をまわって用人らに内密の面会を求めたが、或いは用人が留守だといい、或いは面会は出来ぬといい、この事は八丁堀役人の方へ申し入れてあるから、訊きたい事があるならばそれに訊いてくれ、当屋敷で直接の対談は断わると云い、いずれも申し合わせたように門前払いである。それでは取り付く島がない。自分の方から頼んで置きながら何のことだと、半七は肚《はら》のうちで舌打ちしたが、武家屋敷の仕事は大抵こんなものだと覚悟しているので、小梅の長五郎から聞き出した一種の秘密を唯一《ゆいいつ》の材料にして、ひそかに探索を進めて行くのほかは無かった。
こんなわけで、とかくに仕事が捗取《はかど》らず、半七らを苛々《いらいら》させていると、それから十日ばかりの間に、二つの事件が出来《しゅったい》して、更に彼等を苛立たせた。その一つは二月二十三日の朝、かの深川の寅吉という船頭が何者にか殺害されたことである。浄心寺のうしろは山本町で、その山本町から三好町の材木置場へ通うところに小さな橋がある。寅吉の死骸はその橋の下に浮かんでいたが、右の肩先からうしろ袈裟《げさ》に斬られているのを見ると、その相手は恐らく武士《さむらい》で、うしろから一刀に斬り倒して、死骸を河へ投げ落としたのであろうと察せられた。
検視の上、このごろ流行る辻斬りの仕業《しわざ》であろうということになったが、辻斬りをする者がその死骸をわざわざ河のなかへ投げ込んでゆく筈がない。幸次郎の報告によって、その下手人が誰であるかを半七は大かた推量していた。寅吉の出入りを尾けていた幸次郎は、彼が何処をどう歩いて、何者に斬られたかを窃《ひそ》かに見とどけたのであった。下手人は物蔭に窺っている幸次郎のすがたを見て、一目散に逃げてしまった。
次は二月二十八日の朝、築地南小田原町の河岸《かし》に心中の男女の死骸が発見された。それは彼《か》の三河屋の前の河岸につないである屋根船のなかの出来事で、その船は浅井の屋敷の人々を沈めたという因縁つきの物である。浅井の一件が落着《らくぢゃく》次第、当然焼き捨てらるべき船のなかで、更に第二の悲劇が演ぜられたのは、いわゆる呪いの船とでも云うべきであろうか。
しかもこの心中は噂ばかりで、その実際を見とどけた者は少なかった。その噂を聞き伝えて見物人が寄り集まって来る頃には、二つの死骸はすでに取り片付けられて、形見の船が春雨《はるさめ》に濡れているばかりであった。
「心中は綺麗な若いお武家と、若い女だ」
それを見た者は云い触らした。男は十七八の美しい武士で、女は二十歳《はたち》前後の、武家奉公でもしていたらしい風俗である。二人は船のなかに座を占めて、男は脇差で先ず女を刺し殺し、自分も咽喉《のど》
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