小料理屋がある。巳之助はそこの総領息子で、大森の親類をたずねた帰り道であった。この頃はいろいろの忌《いや》な噂があるから、今夜は泊まってゆけと勧められたのであるが、巳之助は若い元気と一杯機嫌とで、振り切って出て来た。
 月は無いが、星の明るい夜であった。巳之助は提灯をふり照らしながら、今やこの縄手まで来かかると、睨みの松のあたりに人影がぼんやりと見えた。はっ[#「はっ」に傍点]と思って提灯をさしつけると、それは白い手拭に顔をつつんだ女であった。今頃こんな処にうろついている女――さては例の狐かと、彼は更に進み寄って正体を見届けようとする途端に、女はするすると寄って来た。
「あら、巳之さんじゃないの」
「え、誰だ、誰だ」
「やつぱり巳之さんだ。あたしよ」
 提灯のひかりに照らされながら、手拭を取った女の白い顔をみて、巳之助はおどろいた。
「おや、お糸か。どうしてこんな処にぼんやりしているのだ」
「まあ、御迷惑でも一緒に連れて行って下さいよ。あるきながら話しますから……」
 女は巳之助が買いなじみの女郎で、品川の若狭《わかさ》屋のお糸というのであった。勤めの女が店をぬけ出して、今頃こんな処に
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