云うんです。なぜ睨んだのか判りませんが、まあ、そういうことになっているので、俗に睨みの松と呼ばれていました。
 くどくも申す通り、場所が場所である上に、そういう因縁付きの松が突っ立っているんですから、その松の近所がとかくに物騒で、追剥ぎや人殺しや首|縊《くく》りの舞台に使われ易いんです。
 わたくしの話はいつも前口上が長いので恐れ入りますが、これだけの事をお話し申して置かないと、今どきのお方には呑み込みにくいだろうと思いますので……。いや、もうこのくらいにして、本文《ほんもん》に取りかかりましょう」

 安政六年の春から夏にかけて、鈴ヶ森の縄手に悪い狐が出るという噂が立った。品川に碇泊している異国の黒船から狐を放したのだなどと、まことしやかに伝える者もあった。いずれにしても、その狐はいろいろの悪戯《いたずら》をして、往来の人々をたぶらかすというのである。さなきだに物騒の場所に、悪い噂が又ひとつ殖えて、気の弱い通行人をおびやかした。
 四月二十八日の夜の五ツ(午後八時)を過ぎる頃に、巳之助《みのすけ》という今年二十二の若い男がこの物騒な場所を通りかかった。芝の田町《たまち》に小伊勢という
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