は船へ帰る刻限がやかましいので、その刻限になるとみんな早々に帰ってしまうそうで……。どんなに酔っていても、感心にさっさ[#「さっさ」に傍点]と引き揚げて行くそうです」
「そんなに金放れがよくっちゃあ、今も云う慾の世の中だ。その異人に係り合いでも出来た女があるかえ」
「さあ、それはどうですか。いくら金放れがよくっても、まさかに異人じゃあ……」と、女中はまた笑った。「誰だって相手になる者はありますまい」
「手を握らせるぐらいが関の山かな」と、松吉も笑った。「それで一歩も二歩も貰えりゃあいい商法だ」
「ほほほほほほ」
 女中は銚子をかえに立った。そのうしろ姿を見送って、松吉はささやいた。
「成程、親分の眼は高けえ。人ちがいの相手は坂井屋のお糸ですね」
「まあ、そうだろう。そのお糸が黒船のマドロスと出来合って逃げたらしいな」
「それを自分の馴染の女と間違えるというのは、巳之助という奴もよっぽどそそっかしい野郎だ」
「野郎もそそっかしいが、女も女だ。まあ、待て。それには何か訳があるだろう」
 女中が再びあがって来たので、半七はまた訊き始めた。
「おい、姐さん。駈け落ちをしたお糸には、なにか色男でもあったのかえ」
「それはよく知りませんが、近所の伊之さんと……」
「伊之さん……。伊之助というのか」
「そうです。建具屋の息子で……。その伊之さんと可怪《おか》しいような噂もありましたが、伊之さんは相変らず自分の家《うち》で仕事をしていますから、一緒に逃げたわけでも無いでしょう」
「お糸の宿はどこだ」
「知りません」
 まったく知らないのか、知っていても云わないのか、女中はその以上のことを口外しないので、半七も先ずそれだけで詮議を打ち切った。しかもここへ来て判ったことは、若狭屋のお糸は坂井屋のお糸の間違いである。小伊勢の巳之助は建具屋の伊之助の間違いで、伊之さんを巳之さんと聞き違えたのである。勿論、両方ともにそそっかしいには相違ないが、薄暗いところで見違えたのが始まりで、両方の名が同じであるために、いよいよ念入りの間違いを生じたらしい。女の顔がのっぺらぼう[#「のっぺらぼう」に傍点]に見えたなどは、巳之助の錯覚であろう。
 京の商人《あきんど》が睨みの松で天狗にあったというのは、黒船のマドロスを見たに相違ない。口から火を噴いていたというのも、恐らく巻煙草のけむりであろう。それを思うと
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