らねえが、お六と一緒に暮らしている奴は勇二といって、土地の遊び人なんぞとも附き合っているそうですから、何をするか判りませんよ」
「その勇二は二、三日前から帰らねえと云うじゃあねえか」
「二十六日の晩から家《うち》へ帰らねえそうです」
「鮫洲の金造という奴の家へ行っているという話だから、これからともかくも行ってみようと思っているのだ」
「鮫洲の金造……。あいつならわっしも知っています。現にきのうも品川で逢いましたよ。生薬屋《きぐすりや》の店で何か買っていました」
「金造はどんな奴だ」
「なに、けち[#「けち」に傍点]な野郎ですよ」
 半七は立ちどまって考えていた。
「おい、松。御苦労だが、品川へ引っ返して、その生薬屋で金造が何を買ったか調べて来てくれ。風薬《かざぐすり》の葛根湯《かっこんとう》ぐらいならいいが、疵《きず》薬でも買やあしねえか」
「ようがす。すぐに調べて来ます」
「往来に立ってもいられねえ。そこの団子茶屋に休んでいるぜ」
 橋のたもとの茶店にはいって暫く待っていると、やがて松吉が急ぎ足で帰って来た。
「親分。案の通り、金造は切疵《きりきず》のくすりを買って行きました。金創《きんそう》いっさいの妙薬という煉薬《ねりぐすり》だそうで……」
 勇二は金造の家にかくれて疵養生をしているのであろうと、半七は推量した。鈴ヶ森で侍を殺した時に、彼も手疵を負ったらしい。自分の家へ帰って療治をすると、秘密露顕の虞れがあるので、金造に頼んで薬を買わせにやったのであろう。どんな様子か実地を見とどけて、怪しい節《ふし》があればすぐに引き挙げてもいいと決心して、松吉にもそっとささやくと、彼も同意して親分のあとに続いた。
 街道から右へ切れると、そこらには田畑が多かった。細い田川も流れていた。その田川で小鮒でもあさっているらしい子供に教えられて、金造の家はすぐに知れた。むさし屋の女の云った通り、近所に遠い畑のなかに二軒の藁葺き屋根が隣り合っていて、外には型ばかりの低い垣根が結いまわしてあった。軒は朽ち、柱は傾いて、どっちが空家か判らないほどに荒れているので、二人は垣根の外に忍び寄って、右と左の家をうかがっていると、左の家のなかで忽ちにわっ[#「わっ」に傍点]という男の悲鳴がきこえた。
 二人ははっ[#「はっ」に傍点]と顔を見あわせると、破れ障子を蹴倒して一人の男がころげ出した。彼は左の脇腹をかかえながら、庭の空地《あきち》に転げ落ちたかと思うと、また這い起きて駈け出して、竹の朽ちている垣根を押し破って、表へくぐり出ると直ぐにのめって倒れた。その腰から下は溢れるばかりの生血《なまち》にひたされていた。
「や、金造か」と、松吉は叫んだ。「おい、どうした、どうした」
 金造は倒れたままで声も出さなかった。その間《ひま》に半七は垣を破って内へ駈け込むと、破れ畳にもなまなましい血が流れて、うす暗い家のなかに幽霊のような若い女が、さながら喪神《そうしん》したようにべったり[#「べったり」に傍点]と坐っていた。坐るというよりも半分は倒れたようなしどけ[#「しどけ」に傍点]ない姿で、手には匕首《あいくち》を握っていた。しかもそれが相当の武家の奥方とでも云いそうな人柄であるので、半七も少し躊躇した。
「あなたはどなたでございます」
 女は黙っていた。
「あの男はあなたがお手討ちになったのですか」
 女はやはり黙っていたが、やがて気がついたように匕首をとり直して、自分の咽喉《のど》に突き立てようとしたので、半七は飛びあがって其の手を押さえたが、もう間に合わなかった。彼女の蒼白い頸筋からくれないの血が流れ出した。

     五

 半七老人はここまで話して来て、例によって「これでお仕舞」というような顔をした。
「その女は何者ですか」と、私は追いすがるように訊《き》いた。
「その女は湯島の化物稲荷《ばけものいなり》……と云っても、この頃の人にはお判りにならないでしょうが、今の天神|町《ちょう》の一丁目、その頃は松平|采女《うねめ》という武家屋敷の向う角で、そこに化物稲荷というのがありました。なぜ化け物と云ったのか知りませんが、江戸時代には化物稲荷という名になっていて、江戸の絵図にも化物稲荷と出ている位ですから、嘘じゃありません。その稲荷さまの近所に屋敷を持っている塚田弥之助という六百石の旗本の奥さまで、お千恵さんという人でした」
「そんな身分の人がどうして鮫洲の金造という奴の家に来ていたんですか」
「それには仔細があります。その塚田弥之助というのは、今年《ことし》二十二の若い人で、正月いっぱいに江戸を引き払って甲府勤番ということになりました。仕様のない道楽者であるために、いわゆる山流しで甲州へ追いやられたんです。就いては自分の屋敷を他人《ひと》に譲り、そのほかの家
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