で帰って来たのですが、どうしましょう」
「鈴ヶ森じゃあ町方《まちかた》の係り合いじゃあねえが、いずれ頼んで来るだろう。殊に屋敷者だから、まあひと通りは調べて置くがいいな」と、云いかけて半七は思い出したように云った。「それから、品川の桂庵の一件だが、亭主の身許《みもと》はまだ判らねえか」
「なんでも湯島《ゆしま》か池《いけ》の端《はた》あたりに中間奉公をしていたらしいのですが、どこの屋敷かまだ突き留められません。なにしろあの辺には屋敷が多いので……。まあ、そのうちに何とかしますから、もう少し待って下さい」
「鈴ヶ森の人殺しは、ひょっとすると鳥亀の一件にからんでいるかも知れねえな」
「なぜです」と、松吉は不思議そうに訊《き》いた。
「なぜと訊かれちゃあ返事に困るが、多年この商売をしていると、自然に胸に浮かぶことがある。まあ、虫が知らせるとでもいうのかも知れねえが、それが又、奇妙にあたることがあるものだ。今度の一件も何だかそんな気がしてならねえ」
「もしそうならば、いよいよ事が大きくなりますね。なにしろ鈴ヶ森の方を調べてみましょう。案外の手がかりがあるかも知れません」
四
あくる日の朝、半七は八丁堀同心坂部治助の屋敷へ呼ばれた。すぐに行ってみると、それは彼《か》の鈴ヶ森の一件で、変死人は市内の屋敷者らしいから、町方の方でその身もとを詮議して貰いたいと郡代《ぐんだい》からの依頼があった。下手人《げしゅにん》も分明次第に召し捕ってくれというのである。
「そういう訳だから、なんとか埒を明けてくれ」と、坂部は云った。
「かしこまりました。わたくしにも少し心あたりがありますから、早速取りかかります」
こうなると子分任せにもして置かれないので、半七はその足で品川へ出向いた。
このあいだの大雪以来、もう十日あまりの天気がつづいたので、大通りのぬかるみも大かたは踏み固められた。この頃の寒い風もきょうは忘れたように吹きやんで、いわゆる梅見|日和《びより》の空はうららかに晴れていた。高輪の海辺《うみべ》をぶらぶらあるいて行くと、摺れ違う牛の角《つの》にも春の日がきらきらと光って、客を呼ぶ茶屋女の声もひとしお春めいてきこえた。品川の北から南へ通りぬけて、宿《しゅく》のはずれへ来かかると、ここらには寺が多い。その門内には梅でも咲いているのであろう、ところどころで鶯の声がきこえて、無風流の半七もときどきに足を止めた。
目あての桂庵は海保寺の門前にあって、入口にむさし屋という暖簾《のれん》が懸かっていた。近所で訊くと、おかみさんは三十三の厄年で川崎の初大師へ参詣に行って、その帰り道で暴れ馬に蹴られて、駕籠に乗って帰って来たが、それから熱が出たので今も寝ているという噂であった。お六は鶏に襲われたことを秘《かく》して、馬に蹴られたと云っているらしい。鶏というのを憚っているのは、そこに何かの仔細が無ければならないと、半七の疑いはいよいよ深められた。彼は思い切って、むさし屋の暖簾をくぐってはいると、手引きらしい四十前後の女が店さきに腰をかけていた。
「ごめんなさい」と、半七は会釈《えしゃく》した。「おかみさんは内ですかえ」
「おかみさんは二階に寝ていますよ」と、女も会釈しながら答えた。「七日ほど前に怪我をしましてね」
「番頭さんは……」
「番頭さん……。勇さんですか」
「ええ、勇さんです」
「勇さんは二、三日留守ですよ」
「どこへ行ったのです」
「さあ、わたしもよく知りませんが、金さんのところへでも行っているのじゃありませんか」
「金さんの家《うち》はどこでしたね」
「金さんの家は……。なんでも鮫洲《さめず》を出はずれて右の方へはいった畑のなかに、古い家が二軒ある。一軒は空家《あきや》で、その隣りが金さんの家だそうですよ」
「いや、ありがとう。おかみさんをお大事に……」
半七はそこを出て、更に近所で訊いてみると、むさし屋に出入りする金さんは金造といって、この品川の宿をごろ[#「ごろ」に傍点]付き歩いて、女郎屋の妓夫《ぎゆう》などを相手に、小博奕などを打っている男であることが判った。それを友達にしている勇さんの正体も大抵想像された。
「ともかくも鮫洲へ行ってみよう」
半七は浜川の方にむかって、東海道をたどって行くと、涙橋のたもとで松吉に逢った。
「やあ、お出かけでしたか」と、松吉は寄って来てささやいた。「実は少し聞き込んだことがあるのですがね。品川の宿の入口に駕籠屋がある。あすこの奴らの話じゃあ、おとといの晩ひとりの若い侍が来て、桂庵のむさし屋はどこだと聞いて行ったそうで……。その侍の年頃や人相が鈴ヶ森の死骸にそっくりですから、やっぱり親分の鑑定通り、鈴ヶ森の一件は鳥亀の奴らに何かの引っかかりがあるに相違ありません。むさし屋の番頭だか亭主だか知
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