財なども売り払って百両ほどの金をこしらえ、いよいよ二十八日には江戸を立つという間際《まぎわ》になって、奥様のお千恵さんはお名残《なご》りに湯島の天神さまへ御参詣して来ると云って、二十五日のひる過ぎに屋敷を出て、途中で女中を撒《ま》いてしまって、ゆくえ知れずになりました。奥様も奥様だが、殿様も殿様で、これも江戸のお名残りだというので吉原へ昼遊びに行っている。その留守中に奥様は家出というのですから、屋敷は乱脈でお話になりません。お千恵さんというのは十六の秋にこの屋敷へ縁付いて来て、あしかけ四年目の十九で、夫婦のあいだには子供はない。亭主は道楽者で、内を外に遊び歩くためでもありましょうが、お千恵さんはいつか自分の屋敷の若侍の安達文次郎という者と密通していて、今度の甲府詰めを機会にかの百両をぬすみ出して、二人は駈け落ちをするという相談を決めたんです。そこへ現われて来たのが品川のむさし屋の勇二という奴で……」
「勇二は塚田の屋敷に何か関係があったんですか」
「勇二は去年の春まで塚田の屋敷に中間奉公をしていたんです。その時から奥様と文次郎の関係を薄々覚っていたのかも知れませんが、当人の白状では、正月の初めに下谷《したや》の往来で文次郎に出逢って、そこらの小料理屋へ連れ込まれて、初めて相談を掛けられたのだということです。いずれにしても、胸に一物《いちもつ》ある勇二はすぐにその相談に乗って、ひとまず奥様を鮫洲の金造の家に隠まうことにして、約束の二十五日の午《ひる》過ぎに湯島の天神の近所に忍んでいて、お千恵さんを駕籠に乗せて鮫洲に送り込みました。一緒に出ては忽ちに覚られるというので、文次郎は素知らぬ顔で騒いでいて、翌日の二十六日の夕方から奥様のゆくえを探すという体《てい》にして、かの百両を懐中にして、これも屋敷を飛び出してしまいました。行くさきは品川ですが、文次郎は勇二の家を知らないので、宿《しゅく》の入口の駕籠屋で訊いて、桂庵のむさし屋へたずねて行くと、勇二は待っていて表へ連れ出しました。
 文次郎はまだ夜食を食わないというので、勇二はそこらの料理屋へ案内して、二人は飲んで食って、文次郎をいい加減に酔わせて置いて、さあこれから鮫洲の金造の家へ行こうと云って出たんですが、もう其の頃は五ツ(午後八時)過ぎで夜は真っ暗、文次郎はここらの案内を知らないので、黙って勇二のあとに付いて行くと、鮫洲を通り越して鈴ヶ森の縄手にさしかかる。勇二は草履の鼻緒が切れたと云って、提灯を路ばたに置いて何時までもぐずぐずしているので、文次郎もどうしたのかと覗きに来ると、勇二は不意に手拭を文次郎の首にまき付けて絞め殺そうとしたのが巧く行かない。そこで、今度は隠していた匕首《あいくち》をぬき出して、滅茶苦茶に突いた。それでも相手は侍ですから倒れながらも抜き撃ちの太刀さきが勇二の右の膝にあたったので、勇二も倒れる。文次郎も倒れる。文次郎はそのまま息が絶えてしまったので、勇二は這い起きてその懐中の金を奪い、その上に大小は勿論、煙草入れから鼻紙まで残らず奪い取って、死骸は海へ突き流そうと浪打ちぎわまで引き摺って行くときに、誰かそこへ通りかかったので、勇二はあわてて提灯を吹き消して、怱々《そうそう》に逃げ出しました。
 鮫洲のあたりまで引っ返して来て気がつくと、右の膝がしらから血が流れる、疵が痛む。跛足《びっこ》をひきながら金造の家へ転げ込んで、疵を洗って手当てをして、その晩はともかくも寝てしまったが、明くる朝になると疵口がいよいよ痛む。刀の先が少しあたっただけで、さのみに深い疵でも無いんですが、ひどく痛む。金造に頼んで傷薬を買って来て貰って、内証で療治をしていると、その翌日の午過ぎに、わたくし共に踏み込まれたというわけです。それですから勇二は逃げるも、どうするもありません、なんの苦もなく召し捕られました」
「金造はなぜ殺されたんですか」
「金造の殺されたのは自業自得《じごうじとく》で……。勇二は先ず塚田の奥様を金造の家《うち》へ連れ込み、その明くる晩に文次郎をさそい出して鈴ヶ森で殺してしまい、文次郎から百両の金を奪い取った上に、奥様を東海道筋の宿場女郎に売り飛ばすという、重々の悪事を企《たくら》んでいたんです。そこで二十五日の晩は無事だったんですが、二十六日の晩になっても約束の文次郎が来ないので、お千恵さんも気を揉み出した。おまけに勇二ひとりが帰って来て、ひそかに疵の手当てなどをしているので、お千恵さんはいよいよ疑って何かと詮議を始めたので、文次郎殺しを覚られては面倒、お千恵を逃がしてはいよいよ面倒と、勇二と金造は相談の上で、二人はここで正体をあらわし、奥様の手足を荒縄で縛って、手拭を口に噛ませて、隣りの空家へ押し籠めて置いたんです。いや、それだけならまだいいんですが、二十七日の
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