とが想像された。万次郎の運動によって、たとい此の事件が無事に納まるとしても、絵馬を掏り換えたままにして置くことは出来ない。こうなった以上は、どうしても本物を元へ戻さなければならない。それが彼に取っては忍び難い苦痛であるので、結局かれは家を捨て、妻を捨て、さらに我が身をほろぼすをも顧《かえり》みないで、かの絵馬を抱いて姿を隠したのであろう。つまり一種のマニアである。この時代でも、余り物に凝り過ぎると馬鹿か気違いになると云ったのであるが、多左衛門も絵馬の道楽に凝り過ぎて、殆ど気違いのようになってしまったらしい。余りのあさましさに云うべき言葉もなく、お才も与兵衛も顔をみあわせて溜め息のほかは無かった。
 その日が暮れると、約束の通りに万次郎が来た。与兵衛は主人の家出の事情を打ち明けて、そのありかの知れるまでは運動費の二千両を渡しかねるから、暫く猶予してくれと懇願すると、万次郎はそれを信じなかった。家内の者が共謀して、主人をどこへか隠したのであろうと彼は邪推した。
「ゆうべも番頭に云った通り、おれは親切ずくで働いているのだ。それ無《む》にして、変な小細工をするなら、おれはもう手を引くからそう思
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