》を冷やしたというのは、全くこの事です」
 半七老人はその当時の光景を思い泛《う》かべたように、大きい溜め息をついた。それに釣り込まれて、わたしも思わず身を固くした。
「何事がおこったんです」
「まあ、お聴きください。毎度お話をする通り、嘉永六年の黒船渡来から、世の中はだんだんに騒がしくなって、幕府でも海防ということに注意する。なんどき外国と戦争を始めるかも知れないというので、江戸近在の目黒、淀橋、板橋、そのほか数カ所に火薬製造所をこしらえて、盛んに大筒小筒の鉄砲玉を製造したんです。それには水車《すいしゃ》が要るということで、大抵は大きい水車のある所を択《えら》んだようですが、今から考えれば火薬の取り扱い方に馴れていなかったんでしょう、それが時々に爆発して大騒ぎをする事がありました」
「あなたもその爆発に出逢ったんですか」
「そうですよ。わたくしの出逢ったのは淀橋でした。御承知の通り、ここは青梅《おうめ》街道の入口で、新宿の追分から角筈、柏木、成子、淀橋という道順になるんですが、昔もなかなか賑やかな土地で、近在の江戸と云われた位でした。淀橋は長さ十間ほどの橋で、橋のそばに大きい穀物問屋がありまして、主人は代々久兵衛と名乗っていたそうですが、その久兵衛の店に精米用の大きい水車が仕掛けてありました。この水車を山城《やましろ》の淀川の水車にたとえて、淀橋という名が出来たのだという説もありますが、嘘か本当か存じません。ともかくも大きい水車があるために、ここの家も火薬製造所に宛《あ》てられていました処が、このお話の安政元年、六月十一日の明け六ツ過ぎに突然爆発しました。炎天つづきで焔硝が乾き過ぎたせいだとも云い、何かの粗相で火薬に火が移ったのだとも云い、その原因ははっきり[#「はっきり」に傍点]判りませんでしたが、なにしろ凄まじい音をさせて、三度もつづいて爆発したんです。さながら天地震動という勢いで、久兵衛の家は勿論、その近所二丁四方は家屋も土蔵も物置も、みんな吹き飛ばされて滅茶滅茶になってしまいましたが、全体では四丁四方の損害でした。いくら賑やかだと云っても、それは表通りだけのことで、裏へまわれば田や畑が多いんですから、その割合いに人家の被害は少なかったんですが、死人や怪我人は随分ありました。それが為に虫をおこして死んだ子供や、流産した女もあったそうです。いや、実に大変な騒ぎで……。誰だって不意をくらったんですが、わたくし共は捕物の最中というのだから猶更おどろきましたよ」
「なんの捕物に出ていたんですか」
「それが今お話をしている絵馬の一件で、大津屋の重兵衛を追い廻している時なんです」と、老人は説明した。
「いや、まあ、捕物の前にこの一件の種明かしをしてしまいましょう。それで無いと、お話がどうも捗取《はかど》りませんから……。大抵はもうお判りでしょうが、丸多の主人多左衛門が絵馬道楽で、半気ちがいになっているのを付け込んで、大津屋の重兵衛は正雪の絵馬の偽物《にせもの》をこしらえました。そうして、本物と掏り換える役目まで引き受けたんですが、掏り換えたというのは嘘で、実は偽物をそのまま丸多へ渡したんです。鷹の絵は女絵かきの孤芳にかかせましたが、その絵といい、絵馬の木地《きじ》といい、よっぽど上手に出来ていたと見えて、丸多も見ごとに一杯食わされてしまったんです。早くいえば、骨董好きの金持が書画屋や道具屋に偽物を売り付けられたようなわけで、それで済んでいればまあ無事なんですが、重兵衛はその骨折り賃に三十両という金を取っていながら、まだ其の上に大きい慾をかいて、謀叛人の絵馬をぬすみ出したとか、謀叛人の絵馬を大事にしているとかいうのを種に、丸多を嚇かして何千両をゆすり取ろうという大望《たいもう》をおこして、その手先に万次郎を使うことになりました」
「万次郎は大津屋の娘と本当に関係があったんですか」
「確かに関係がありました。いわゆる悪女の深なさけで、女の方はもう夢中になっていたんです。親父の重兵衛も勿論承知で、ゆくゆくは夫婦《めおと》にすると云っていたくらいですから、万次郎も今度の役を引き受けなければなりませんでした。万次郎は年も若いし、腹のしっかりした悪党というのでもありませんが、つまりは慾に引っかかって、重兵衛の指尺《さしがね》通りに働くことになったんです。そこで、丸多の主人をうまく嚇し付けて、最初に百両ずつ二度も引き出したんですが、重兵衛はそのくらいの事で満足するのじゃあない、どうしても何千両の夢が醒めないので、いろいろに万次郎をけしかけて、ますます丸多いじめにかかっていると、相手の多左衛門は絵馬をかかえて家出をしてしまったので、この計画は腰折れの形になりました。それでも丸多の女房や番頭を嚇かせば、まだ幾らかになると思っているうちに、重兵衛は心
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