なえて、家内の人たちに悔みの挨拶をした。今夜は親類に知らせただけで、夜が明けてから世間へ披露《ひろう》するとの事であったが、それでも旧《ふる》い店だけに、出入りの者などが早くも詰めかけて、広い家内は混雑していた。
「御検視の済んだものを、わたくし共がいじくるのもいかがですが……」と、半七は親類や番頭にことわって、座敷に横たえてある多左衛門の死に顔の覆いを取りのけた。片手に蝋燭をかざしながら、まずその死に顔を覗いて、次にその咽喉《のど》のあたりを検《あらた》めた。更にその手の指を一々に検めた。
それが済んで、半七は縁側の手水《ちょうず》鉢で手を洗っていると、幸八が付いて来てささやくように訊いた。
「別に御不審はございませんか」
「少し御相談がありますから、大番頭さんを呼んでください」
与兵衛と幸八を別間へ呼び込んで、半七は自分の意見を述べた。自分はこれまで縊死者《いししゃ》の検視にもしばしば立ち会っているが、わが手で縊《くび》れて死んだ者があんなに苦悶の表情を留めている例がない。咽喉《のど》のあたりに微かに掻き傷の痕がある。左の中指と右の人さし指の爪が少し欠けけている。それらを綜合して考えると、主人は他人《ひと》に絞められて、その絞め縄を取りのけようとして藻掻《もが》きながら死んだのである。自分の帯で縊れていたと云うが、頸のまわりに残っている痕をみると、細い縄のような物で強く絞めたらしい。就いては乱心の自殺として、このまま無事に済ませてしまうか、あるいは他殺として其の下手人《げしゅにん》を探索するか。皆さんの思召《おぼしめ》しをうかがいたいと、半七は云った。
それを聞いて、与兵衛らはひどく驚いたらしく、いまは後家《ごけ》となった女房のお才をはじめ、親類一同を奥の間へ呼びあつめて、俄かに評議を開いた。今さら他殺などと騒ぎ立てるのは外聞にもかかわる事であるから、この儘おだやかに済ませたが好かろうという軟派と、他殺ならば其の下手人を探し出して、相当の仕置を受けさせるが順道であるという硬派と、議論は二派に分かれたが、お才はどうしても主人のかたきを取って貰いたいと強硬に主張するので、軟派の人々も争いかねて、結局その下手人の探索を半七に頼むことになった。
それから二日目に、丸多の店では主人の葬式を出した。表向きは乱心の縊死ということになっているので、世間の手前、あまり華やかな葬式を営むことを遠慮したのであるが、それでも会葬者はなかなかに多かった。大津屋の重兵衛も会葬者の一人に加わっていた。
葬式が果てた後、亀吉は重兵衛のあとを尾《つ》けてゆくと、彼は太宗寺の方角へ足を向けた。それは新宿の閻魔として有名の寺である。その寺に近いところに、小さい二階家があって、重兵衛はその入口の木戸をあけてはいった。庭には白い辛夷《こぶし》の花が咲いていた。
近所で訊くと、それが彼《か》の女絵師の孤芳の住み家であった。これで重兵衛と孤芳との関係が、自分の鑑定通りであるらしいことを亀吉は確かめたが、更に近所の者の話を聞くと、孤芳の家には重兵衛のほかに、二十歳《はたち》前後の色白の男が時々に出入りをする。又そのほかに十七八の不器量な娘も忍んで来るというのであった。男はおそらく牧野万次郎で、娘は大津屋のお絹であろう。孤芳が重兵衛の囲い者のようになっている関係上、万次郎とお絹はここの二階を逢いびきの場所に借りている。それもありそうな事だと、亀吉は思った。
その報告を聴いて、半七は云った。
「それだけの事が判ったら、それを手がかりに、もうひと足踏ん込まなけりゃあいけねえ。丸多の亭主の下手人は大津屋の重兵衛と睨んでいるものの、確かな証拠も無しに手を着けるわけにゃあ行かねえから、まあ気を長く見張っていろ」
亀吉は承知して帰ったが、それから十日《とおか》ほど後に、かの孤芳は太宗寺のそばを立ち退いてしまったと報告した。女絵師は突然に世帯《しょたい》をたたんで、夜逃げ同様に姿をかくしたので、近所でもその引っ越し先を知らないと云うのであった。
それから更に十日ほどの後に、亀吉は新らしい報告を持って来た。大津屋の娘お絹が家出してゆくえ不明になったが、万次郎と一緒に駈け落ちなどをした様子はない。万次郎は相変らず四谷坂町の実家に住んでいる。大津屋では娘の家出を秘密にして、病気保養のために房州の親類に預けたとか云っているが、それが突然の家出であることは近所でもみな知っているというのである。女絵師の夜逃げ、娘の家出、そのあいだに何かの糸が繋がっているらしいのは、何人《なんびと》にも容易に想像されることで、半七もそれに就いていろいろの判断を試みたが、確かにこうという断定をくだし得ないうちに、四月もいつか過ぎてしまった。
五
「あの時は実におどろきましたよ。胆《きも
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