や不満らしく話した。自分も好んでこんな事に係り合いたくは無いのであるから、お前の主人がいつまでも渋っているようならば、自分はもう手を引くのほかは無いと、彼は云った。
 それが一種の嚇しのように聞かれないでも無かったが、今この場合、万次郎にすがって何とか無事を図ってもらうのが近道であると考えたので、与兵衛は自分が責任を帯びて、その金を調達すると請け合った。但し旧家といい、老舗《しにせ》といっても、丸多の店の有金《ありがね》を全部をかき集めても二、三千両に過ぎない。そのほかの財産はみな地所や家作《かさく》であるから、右から左に金には換えられない。それを抵当にして他《よそ》から金を借り出すか、あるいは親類に相談して一時の立て換えを頼むか、二つに一つの都合を付けるまで猶予してくれと、彼は万次郎に嘆願した。
「それなら先ず有金を吐き出して置いて、地所や家作の抵当はあとの事にすればいいじゃあねえか。こっちは急ぎだ。ぐずぐずしていると、六日《むいか》の菖蒲《あやめ》になるぜ」と、万次郎は催促するように云った。
「しかし、有金を残らず差し出してしまいましては、店の商売が出来ません」と、与兵衛はいろいろに云い訳をした。
 かれこれ押し問答の末に、ともかくもあしたの晩までに二千両の金を渡すことに約束して、二人は別れた。与兵衛は急いで大木戸の店へ帰って、まず女房のお才にその一条を訴えると、お才も死人のような顔になった。すぐに主人の多左衛門を奥へ呼んで、女房と番頭が右ひだりから詰問すると、多左衛門もいっさいを正直に白状した。自分の道楽からみんなに心配をかけて申し訳がない。諸事は万次郎の云う通りであるから、何分よろしく取り計らってくれと、彼は面目なげに云った。万次郎に二百両を渡しただけで、なぜあと金を出し渋っていたかという問いに対しては、余りに大金であるからだと答えた。
 それはおとといの夜のことで、この上は何をおいても金の工面を急がなければならないと、女房は再び番頭と打ち合わせの上で、お才は明くる日の早朝から下町《したまち》の親類へ相談に行った。与兵衛は淀橋辺にある丸多の地所と家作を抵当にして金を借り出す掛け合いに出かけた。親類の方は相談が纏まらないで午《ひる》過ぎにお才は悄々《すごすご》と帰って来ると、店にも奥にも多左衛門の姿は見えなかった。裏口からこっそり[#「こっそり」に傍点]と出て行ったらしく、店の者も今まで気が付かなかったというのである。時が時だけに、お才は一種の不安を感じて、居間のそこらを取り調べると、果たして一通の書置が発見された。それはお才に宛てたもので、自分の不心得を詫びた上に、与兵衛と相談して後の事はよろしく頼むと簡単に書いてあった。
 やがて与兵衛も帰って来て、この書置を見せられて驚いた。取りあえず店の者を諸方へ走らせて心あたりを探させたが、多左衛門の消息は判らなかった。多左衛門は一体なんのために家出したのか。一家の主人たるものが女房や番頭に申し訳なさの家出は、あまり気が狭過ぎるように思われるので、更に家内を取り調べると、かねて貯えてあるたくさんの絵馬のうちで、かの正雪の絵馬一枚が紛失していた。彼がその絵馬をかかえて家出したらしいのは、裏口の井戸ばたに洗濯物をしていた女中の証言によって推定された。長さ二、三尺の額《がく》のような物を風呂敷につつんで、小脇にかかえて出てゆく旦那様のうしろ姿を見ましたと、女中は云った。
 女中や番頭らに対して面目ないという意味も多少はまじっていたかも知れないが、多左衛門が家出の真意は、かの絵馬に対する根強い愛惜であることが想像された。万次郎の運動によって、たとい此の事件が無事に納まるとしても、絵馬を掏り換えたままにして置くことは出来ない。こうなった以上は、どうしても本物を元へ戻さなければならない。それが彼に取っては忍び難い苦痛であるので、結局かれは家を捨て、妻を捨て、さらに我が身をほろぼすをも顧《かえり》みないで、かの絵馬を抱いて姿を隠したのであろう。つまり一種のマニアである。この時代でも、余り物に凝り過ぎると馬鹿か気違いになると云ったのであるが、多左衛門も絵馬の道楽に凝り過ぎて、殆ど気違いのようになってしまったらしい。余りのあさましさに云うべき言葉もなく、お才も与兵衛も顔をみあわせて溜め息のほかは無かった。
 その日が暮れると、約束の通りに万次郎が来た。与兵衛は主人の家出の事情を打ち明けて、そのありかの知れるまでは運動費の二千両を渡しかねるから、暫く猶予してくれと懇願すると、万次郎はそれを信じなかった。家内の者が共謀して、主人をどこへか隠したのであろうと彼は邪推した。
「ゆうべも番頭に云った通り、おれは親切ずくで働いているのだ。それ無《む》にして、変な小細工をするなら、おれはもう手を引くからそう思
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