ってくれ。後日《ごにち》に何事が起っても、主人の首に縄が付いても、ここの店が引っくり返っても、決しておれを恨みなさんなよ。こんなことに係り合うのは真っ平御免だ」
 さんざんに機嫌を損じたらしい彼は、あらあらしく畳を蹴って立ち去った。多左衛門はもちろん帰って来なかった。丸多の一家は不安のうちに雷雨の一夜を明かした。
「さて、これからどうしたらいいか」
 途方に暮れたお才と与兵衛は更に額《ひたい》をあつめて相談の末、若い番頭の幸八を奥へ呼んだ。番頭といっても赤の他人ではなく、幸八はお才の遠縁にあたる者で、丸多の夫婦には実子が無いために、行く行くは彼を養子にすることに内定していたのであった。そういう関係から、幸八も今度の事件については一生懸命に働かなければならない立ち場に置かれていた。
 この場合、何をどうするにしても、まず主人多左衛門のありかを探し出さなければならないので、知り合いの手先に頼んで内々で探索することになった。去年の暮れ、丸多の手代が懸け金の持ち逃げをした時に、手先の亀吉が調べに来て、与兵衛や幸八らとも顔馴染になっているので、幸八がその使を云い付かったのである。彼はその日の午後の雷雨を冒して、駕籠を飛ばせて亀吉の家へ頼みに行くと、亀吉も降りこめられて家にいた。しかも幸八から委細の話を聞いて、彼は首をかしげた。
「こりゃあなかなか面倒な仕事で、わっし一人の手に負えそうもねえ。主人のありかを探し出したところで、あとの始末がむずかしい。やっぱり親分の知恵を借りなけりゃあなるめえ」
 彼が幸八を連れて来たのは、こういう訳であった。亀吉の話の足らないところを、幸八が重い口ながら付け加えて、なにぶんお願い申しますと折り入って頼んだ。
 二人の説明を聞いてしまって、半七もおなじく首をかしげた。
「成程こりゃあ亀吉の云う通り、なかなか面倒な仕事らしい。お城坊主の伜という悪い者が引っからんでいるので、いよいよ面倒だ。しかしまあ折角のお頼みだから、なんとか考えてみましょう。おかみさんにもあんまり心配しねえように云って置くが好うござんすよ」
「なにぶんお願い申します」
 幸八は繰り返して頼んで帰った。
「親分。忙がしいところを済みません。飛んだ厄介物を担《かつ》ぎ込んで……」と、亀吉は云った。彼は勿論、幸八から相当の働き賃を貰っているに相違なかった。
「そこで、その偽物の絵馬をこしらえたという家《うち》は何処だ」と、半七は訊いた。
「塩町の大津屋だそうです」
「一体その絵馬を掏り換えて来たのは誰だ。丸多の主人が自分でやったのか」
「それがよく判らねえのですが……。おそらく自分が手を下《くだ》したのじゃあありますめえ。ほかに頼まれた奴があるのだろうと思われますがね」
「むむ。いくら道楽が強くっても、大家《たいけ》の主人が自分で手を出しゃあしめえ。絵馬屋の奴らが頼まれたのか、それともほかに手伝いがあるのか、それもよく詮議しなけりゃあならねえ。神社の絵馬をどうしたの、こうしたのというのは、寺社の支配内のことで、おれたちの係り合いじゃあねえ。殊に堀ノ内の先だと云うのだから、江戸の町方《まちかた》の出る幕じゃあねえ。おれ達は頼まれただけの仕事をして、丸多の主人の居所《いどこ》さえ突き当てりゃあいいようなものだが、唯それだけじゃあ納まるめえ。仏《ほとけ》作って魂《たましい》入れずになるのも残念だから、引き受けた以上はひと通りの事をしてやりてえと思うのだが……。なにしろその現場を見なけりゃあどうにもならねえ。この分じゃあ明日《あした》は天気だろう。ともかくも一緒に和田へ踏み出してみようじゃあねえか。朝の五ツ半(午前九時)までに大木戸へ行って待ち合わせていてくれ」
「承知しました」
 亀吉は表へ出て、空を仰ぎながら云った。
「親分。あしたは確かに上天気……。星が降るように出ましたよ」

     三

 亀吉の予報は狂わないで、明くる二十八日の朝の空はぬぐうように晴れていた。三月末の俄か天気で、やがて衣更《ころもが》えという綿入れが重いようにも感じられたが、昔の人は行儀がいい、きょうから袷《あわせ》を着るわけにも行くまいというので、半七は暖か過ぎるのを我慢して出ると、神田から山の手へのぼる途中でもう汗ばんで来た。羽織をぬいで肩にかけて大木戸まで行き着くと、亀吉は約束通り待っていた。
「すこし天気が好過ぎるな。だが、まあ、降られるより優《ま》しだろう」
「そうですよ。きのうのようじゃあどうすることも出来ません」と、亀吉も羽織を袖畳《そでだた》みにしながら云った。
 内藤新宿の追分《おいわけ》から角筈《つのはず》、淀橋を経て、堀ノ内の妙法寺を横に見ながら、二人は和田へ差しかかると、路ばたの遅い桜もきのうの雷雨に残りなく散っていた。
 もう青葉だなどと話しながら
前へ 次へ
全14ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング