絞めようとした……。その時お前さんはわたしを助けようともしないで、平気で眺めていたじゃあないか」
「いや、助ける間《ひま》がなかったのだ」
「いいえ、嘘だ、嘘だ」
「嘘じゃあない」
「さんざん人を欺《だま》して置いて、邪魔になったら殺そうとする……。おまえは鬼のような人だ」
「そうぞうしい。静かにしろ」と、徳次は二人を叱り付けた。「いつまでも噛み合っているにゃあ及ばねえ。おれの方にも眼があるから、白い黒いはちゃんと睨んでいるのだ」
六
大番屋《おおばんや》へ送られて三人は更に役人の吟味を受けた後に、新次郎は重罪であるからすぐに伝馬町《てんまちょう》の牢屋へ送られた。お直は宿許《やどもと》へあずけられ、宇吉は主人方へ預けられた。これで一方の埒は明いたが、磯野小左衛門のゆくえは判らなかった。お節の生死《しょうし》も知れなかった。
徳次と半七は親分吉五郎の指図にしたがって、その後も油断なく探索に苦労していたが、どうしても小左衛門親子の影を追い捕えることが出来なかった。
今も昔も同じことで、探索の役目の者も一つの仕事にばかり取り付いているわけには行かない。新らしい事件があとから出て来れば、又その探索に取りかからなければならない。現に半七はその年の十二月に、小柳という女軽業師の犯罪を探索して、初陣《ういじん》の功名をあらわしている。小柳という女の手口が鍋久の人殺しにやや類似の点があるので、半七はそれに比較して、鍋久の人殺しもお節の替玉であることをいよいよ確信するようになったが、ほかの仕事の忙がしいのに追われて、心ならずも投げやりにしていた。
水野閣老の天保度改革は今ここに説くまでもない。その倹約の趣意がますます徹底的になって、贅沢物の禁止、色茶屋の取り払い、劇場の移転など、それからそれへと励行されたが、その一つとして江戸の娘義太夫三十六人は風俗を紊《みだ》すものと認められ、十一月二十七日の夜に自宅または寄席の楽屋から召し捕られて、いずれも伝馬町の牢屋へ送られた。
「可哀そうだが、お上の指図だ」と、吉五郎は云った。半七もその召し捕りにむかった一人であった。
娘義太夫はその名のごとくに若い女が多かったが、大抵は十五六歳から二十二三歳に至る色盛りで、風俗をみだすと認められたのも、それが為であった。かれらは女牢でその年を送って、明くる天保十三年の三月、今後は正業に就くことを誓って釈放された。去年の冬から百日あまりの入牢《じゅろう》が一種の懲戒処分であった。
その三十六人のうちに竹本染之助というのがあって、年は若いが容貌《きりょう》はあまり好くなかった。彼女は半七に召し捕られたのであるが、最初から可哀そうだという吉五郎の言葉もあるので、半七は彼女が入牢するまで親切にいたわってやった。それを恩に着て、染之助は出牢早々に吉五郎のところへ挨拶に来た。半七にも逢って先日の礼を云った。
「どうだ、御牢内は……。面白かったかえ」と、吉五郎は笑いながら訊《き》いた。
「御冗談を……」と、染之助は真顔になって答えた。「わたくしは初めてですから、まったく驚いてしまいました」
「誰だって初めてだろう」と、吉五郎はまた笑った。「だが、男牢と違って女牢だ。そんなに驚くほどの事もなかったろうが……」
「いいえ、それが大変で……。わたくし共はみんな一つところに入れられて居りましたが、牢名主《ろうなぬし》は大阪屋花鳥という人で……」
「大阪屋……。島破りの花鳥か」
「そうでございます」
大阪屋花鳥は初めに云った通り、八丈島を破って江戸へ帰って来て、日本橋の松島町辺に暫く隠れていたが、去年の八月末に、木挽町《こびきちょう》の河原崎座で団十郎の芝居を見物しているところを召し捕られ、それから引き続いて入牢中であることを、吉五郎も知っていた。牢内の習慣として、罪の重い者が名主《なぬし》または隠居と称して、一同の取締り役を勤めるのである。その取締り役の威勢を笠に着て、新入りの囚人を苦しめるのが、かれらの悪風であった。
「成程、花鳥が名主じゃあ新入りは泣かされたろう」と、吉五郎は同情するように云った。「そうして、あいつが何をしたえ」
「とてもお話になりません」と、染之助は泣き出した。
入牢を命ぜられた娘義太夫三十六人は、いずれも年の若い女芸人であるから、暗い牢内へ投げ込まれて殆ど生きている心地はなかった。かれらの多数は碌々に飯も食えなかった。牢名主の花鳥はかれらに対して、最初の十日ほどは優しくいたわってくれたが、かれらが少しく牢内の生活に馴れて、心もだんだんに落ちついて来ると共に、花鳥の態度は、だんだん暴《あら》くなって来た。彼女は若い女たちに向って自分の夜伽《よとぎ》をしろと命じたが、その方法の淫猥、醜虐、残忍は、筆にも口にも説明することが出来ないばかりか
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