、普通の人間には殆ど想像することも出来ない程の忌《いま》わしいものであった。夜もすがらに泣いて惨苦を忍んだ者に対して、花鳥はその翌日必ず一杯のうなぎ飯をおごってくれた。
 三十六人のうちで、その惨苦を繰り返したものは二十五人で、余の十一人は不思議に助かった。それは比較的に容貌《きりょう》のよくない者と、二十歳《はたち》を越えている者とであった。染之助も容貌の好くないのが意外の仕合わせとなって、一度も花鳥の凌辱を蒙らなかったが、他人《ひと》が惨苦を目前に見せ付けられて、夜も昼も恐れおののいていた。
「お慈悲に早く出牢が出来たので助かりましたが、あれが長くつづいたら、人身御供《ひとみごくう》にあがった二十五人の人たちは、みんな責め殺されてしまったかも知れません。鰻めし一杯ぐらい食べさせてくれたって、あんなひどい目に逢わされてたまるものですか」と、染之助はくやし涙にむせびながら云った。
 鰻めし一杯ぐらいというが、その鰻めしが詮議物であると吉五郎は思った。彼は押し返して訊《き》いた。
「そうすると、花鳥の夜伽をした者には、そのあしたきっと鰻めしを食わせてくれるのだね」
「御牢内で鰻めしなんか食べるには、たいそうお金がかかるのだそうですが、毎日きっと誰かに食べさせてくれました」
「むむ、まったくたいそうな金持だな。それで若い女の子をおもちゃにしていりゃあ、娑婆《しゃば》にいるよりも楽だろう」
「本人はどうで重いお仕置になるのだと思って、したい三昧の事をしているのでしょうが、ほかの者が助かりません。この世の地獄とは本当にこの事です」
 思い出しても恐ろしいように、彼女は身ぶるいして話した。染之助が帰ったあとで、吉五郎はなにか考えていた。
「おい、半七。花鳥という奴はひどい女だな」
「色気違いでしょうか」
「色気違いばかりじゃあねえ、なんでも酷《むご》たらしいことをして楽しんでいるのだろう。そこで、今の鰻の一件だが、娑婆で六百文くれえの鰻飯だって、それが牢内へはいるとなりゃあ、牢番たちによろしく頼まなけりゃあならねえから、べらぼうに高けえ物になって、まず一杯が一両ぐれえの相場だろう。女義太夫は百日以上も入牢していたのだから、毎日うなぎ飯を一杯ずつ食わせても百両だ。島破りの女が一年ぐれえの間に、何を稼いだか知らねえが、そんなに大きいツルを持っているというのは不思議だな。江戸へ帰って来てから、どうで善い事をしていやあしめえと思っていたが、あいつも相当の仕事をしていたに相違ねえ」
「そうでしょうね」
 云いながら二人は眼をみあわせた。云い合わせたように、ある疑いが二人の胸に湧き出したのであった。

     七

「ずいぶん長くなりました。ここまでお話をすれば、もう大抵はおわかりでしょう」と、半七老人は云った。
「さあ……」と、わたしは考えながら云った。「そうすると、鍋久の主人を殺したのは、その花鳥という女ですか」
「そうです、そうです。花鳥がお節の替玉になって、久兵衛を殺したんですよ」
「その二人はどういう関係があるんですか」
「お節の親父の磯野小左衛門という奴は、前にもお話し申したとおり、旗本屋敷の渡り用人で……。しかし奉公中に悪いうわさが無かったと云うのは、徳次が探索の疎漏《そろう》で、早く女房に死に別れたせいもありましょうが、年に似合わない道楽者で、方々の屋敷をしくじったのも皆それがためです。そこで、吉原へも遊びに行って、花鳥が大阪屋に勤めている頃の馴染《なじみ》であったんです。娘のお節は容貌《きりょう》も好し、見たところは如何にもしとやかな女ですが、どういうものか手癖が悪くって、肩揚げの取れない頃から万引きなどを働いていたんですが、見掛けがおとなしいから誰も気がつかない。おやじの小左衛門もそれを知っていながら叱ろうともしない。つまり親子揃って良くない奴らであったんです。その小左衛門があるとき途中で花鳥に出逢って、女は島破りの兇状持ちであることを承知の上で附き合っていたんですから、お互いに碌なことは考え出しません。花鳥もなかなかいい女でしたが、何分にも日陰《ひかげ》の身の上ですから、自分が表立って働くことは出来ないので、お節を玉に使ってひと仕事することに相談を決めたんです。
 花鳥は江戸へ帰って来てから、松島|町《ちょう》の糊売り婆の家に隠れていて、女のくせに小博奕を商売にしていたので、巾着切りの竹蔵という若い奴と懇意にしていたんです。普通の懇意だけじゃ無かったかも知れませんが、なにしろ竹蔵という奴は花鳥の云うことを肯《き》いて働く。そういうわけで、花鳥と竹蔵と小左衛門親子と、この四人が腹をあわせて浅草のお開帳に網を張っていたんです」
「それじゃあ、初めから鍋久を狙ったわけじゃあ無かったんですか」と、私は訊いた。
「誰でも構わない、いい
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