た。
「ありがとうございます。就きましては、もう時分《じぶん》どきでございますから、ほんのお口よごしでございますが召し上がって頂きとう存じます」
いつの間にか云い付けてあったと見えて、料理の膳がそこへ運び出されたので、徳次も半七も箸をとった。そのあいだにも、お節のことに就いて徳次はいろいろのことを訊《き》いていた。品川から来たという男の人相や年頃なども訊きただした。
「食べ立ちで失礼だが、御用が忙がしいからお暇《いとま》をします」
飯を食ってしまうと、二人は怱々《そうそう》にここを出て、新堀の川伝いに、豊海橋から永代僑の方角へぶらぶら歩いて行った。こんにちの永代橋は明治三十年に架け換えられたもので、昔とは位置が変っている。江戸時代の永代橋は、日本橋の北新堀から深川の佐賀町へ架けられていたのである。
「おい、半七、おめえは何か見付け出したか。この一件をどう鑑定する」と、徳次はあるきながら訊いた。
「さあ、駈け出しのわたし等にゃあよく判りませんが、お節という嫁は生きているのでしょうね」
「そうだ、生きているに違げえねえ」と、徳次はうなずいた。
「鍋久の土蔵から金を持ち出したのも、お節が自分で盗んだのか、同類の手引きをして盗ませたのか、二つに一つでしょうね。それが露顕《ばれ》そうになって来たので、気ちがいの真似をして飛び出したのだろうと思います。品川の奴が怪談がかりで片袖をとどけて来たのも、お節がほんとうに死んだと思わせる狂言で、きっとお礼をすると云ったなぞと巧《うま》い謎をかけて、行きがけの駄賃に十両せしめて行ったのでしょうね」
「むむ。そこで、久兵衛を殺したのは誰だと思う」と、徳次はまた訊いた。
「それがむずかしいので、私もさっきから考えているのですが、なにしろ下手人《げしゅにん》はお節じゃあありますまいね。お節ならば自分の剃刀を使いそうなものだが……。それとも自分の剃刀は切れが悪いので、人殺しをするために新らしい刃物を買ったのでしょうか。第一、お節が亭主を殺すほどの事はねえ、ただ気ちがいの真似をして川へ飛び込んでしまえば好さそうに思うが……。わたしの考えじゃあ、久兵衛を殺して川へ飛び込んだのは、本人のお節じゃあねえ。泳ぎの上手な奴が替玉《かえだま》になって、水をくぐって逃げたのだろうと思いますね。みんなの眼にはお節と見えたかも知れねえが、暗い夜の事じゃああるし、お節の着物をそっくり着込んで、散らし髪を顔一面に打《ぶ》っかぶっていりゃあ、誰にもちょいと判りますめえ。殊にみんなが慌てている時だから、猶さら本物か贋物かの見分けが付かなかろうと思います」
「おめえもなかなか素人じゃあねえ」と、徳次は笑った。「実はおれも替玉と睨んでいたのだ。こうなると、お節は勿論だが、その親父の浪人者や、替玉の女や、品川から来たという奴や、大勢の奴らが徒党を組んで、鍋久の家《うち》を荒らそうと企《たくら》んだに相違ねえ。この探索はよっぽど手を拡げなけりゃあならねえ事になった。半七、おめえも働いてくれ。おれ一人じゃあ手が廻らねえ」
四
「そうすると、わたしはこれからどっちへ廻りましょう」と、半七は訊《き》いた。
「さしあたりは浅草のお節の実家だ。おやじの小左衛門という浪人者も唯の鼠じゃああるめえ。だが、そこへは俺が行く」と、徳次は云った。「おめえは品川へまわってくれ。怪談の片袖を持って来た奴の身もとを探るのだ。弥平とかいったそうだが、どうせ本名じゃああるめえと思う。鍋久の番頭から聞いた人相や年頃をかんがえると、少しは心当りがねえでもねえ。鍋久へは堅気の風をして来たそうだが、そいつは高輪《たかなわ》の北町《きたまち》で草履屋をしている半介という奴らしい。表向きには草履屋だが、ほんとうの商売は山女衒《やまぜげん》で、ふだんから評判のよくねえ野郎だ。おれも二、三度逢ったことがあるから、神田三河町の徳次の兄弟分だと云やあ、まさか逃げも隠れもしめえ。もし逃げるようならば、いよいよ怪しいに決まっているから、容赦なしに挙げてしまえ。相手は半介で、こっちは半七だ。どっちの半が勝つか、腕くらべだ」
「承知しました」
ここで徳次に別れて、半七ひとりは芝の方角へ足を向けた。高輪北町は泉岳寺の近所である。そこへ行き着いたのは八ツ(午後二時)に近い頃で、日盛りはまだ暑かった。徳次に教えられた通りに、海辺の大通りを右へ切れると、庚申堂《こうしんどう》のそばに小さい草履屋が見いだされた。一人の男が店に腰をかけて、亭主と将棋をさしていた。
亭主は年のころ三十五六で、色の浅黒い、鼻の高い男であった。半七が店さきへ立ち寄ると、彼は将棋の手をやすめてすぐに見返った。
「いらっしゃい」
「いや、わたしは履き物を買いに来たのじゃあねえ。神田三河町の徳次兄いに頼まれて来たのだ
前へ
次へ
全15ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング