いながらも舟を寄せて、その袂をつかんで引き寄せようとすると、袂は切れて……。片袖だけが其の人の手に残って、死骸はまた流れて行ってしまったそうです。これも何かの因縁だろうから、その片袖を自分の寺に納めて、御回向《ごえこう》でもして貰おうと思っていると、その晩の夢にその女が枕もとへ来て、その片袖は北新堀の鍋久へおとどけ下さい、きっとお礼を致しますからと、こう云って消えてしまった。お礼などはどうでもいいが、余りに不思議だからお問い合わせに来ましたと云って、出して見せたのは確かに若いおかみさんの品で……」
「その晩に着ていた物だね」
「そうでございまいます。四《よつ》入り青梅《おうめ》の片袖で、潮水にぬれては居りますが、色合いも縞柄も確かに相違ございません。おかみさんもそれに相違ないと申しまして、品川の人には相当の礼を致して、その片袖をこちらへ受け取りました」
「その礼は幾らやりましたね」
「このことは内分にしてくれと申しまして、金十両をつつんで差し出しますと、その人は辞退して容易に受け取りません。それではこちらの気も済まず、仏の心にも背《そむ》くわけですから、無理に頼んで持たせて帰しました」
 徳次と半七は肚《はら》の中で舌打ちしながら聴いていると、勘兵衛は更に話しつづけた。
「そうしてみると、若いおかみさんはいよいよ遠い海へ流れて行ったに相違ないのでございます。おかみさんの申しますには、わが子を殺した憎い嫁だと一旦は思ったが、乱心であれば仕方がない。こうして形見の片袖をとどけてよこすからは、やっぱりここを自分の家《うち》と思って、わたし達の回向《えこう》を受けたいのであろうから、お寺へ納めてやるが好かろうというので、きのうすぐに菩提寺へ持ってまいりました」
「そりゃあ飛んだ怪談だね」と、徳次はあざ笑うように云った。「そこで、ここの主人を殺したという剃刀はどうしました」
「それは往来に落ちているのを拾いまして、検視のお役人にもお目にかけましたが、そんな物を家へ置くことも出来ませんので、お寺へ持参して何処へか埋めていただきました」
「その剃刀は若いおかみさんがふだん使っていたのですかえ」
「いえ、あとで調べてみますと、ふだん使っていた剃刀は鏡台のひきだしにはいって居りました」
「この騒動のおこる前に、なにか変った事はありませんか」
「その朝から若いおかみさんの様子がすこし変でしたが……」
「それは私も聴いているが、ほかに何かありませんでしたか」
「実は二度ばかり盗難がございまして……」と、勘兵衛は小声で云った。「これは店の者にも知らさないようにして居るのでございますが、今月になりまして二度……。何分にも盆前で店の方も取り込んで居りますので……」
「どのくらい取られましたえ」
「一度は二百両、二度目は百八十両……。御承知の通り、ひる間は土蔵の扉《と》があけてありますので、店が取り込んでいる隙《すき》をみて、何者かが忍び込んだものと見えます」
「いくら取り込んでいるといっても、こちらの店で真っ昼間、土蔵へはいって金を持ち出すのを、知らずにいるとは油断過ぎるな。番頭さん、しっかりしねえじゃあいけねえ」と、徳次はまた笑った。「よもや外からはいったのじゃああるめえ。出入りの者か店の者か、ちっとも心当りはねえのかね」
「主人もおかみさんも不思議だと申して居りますが、どうも心当りございません」
「その晩に失《う》せ物はありませんでしたかえ」
「無いようでございます。主人の手箱に幾らかの金が入れてあったかとも思いますが、奉公人のわたくし共にも確かに判りません。ほかに目立った品がなくなった様子もございませんので、まあ紛失物は無いということになって居ります」
「じゃあ、まあ、それはそれとして、家のなかを少し見せて貰いましょう」
 勘兵衛に案内させて、徳次と半七は家内をひと通り見まわった。久兵衛が殺されたという居間のあたりも調べてみた。土蔵は三棟で、その二棟は商売物の鍋釜類が積み込んであり、ほかの一棟に家財が納めてあることも判った。
 お節の父はどうしたかという徳次の問いに対して、番頭はこう答えた。父の小左衛門は知らせを聞いて直ぐに駈けつけたが、ただ申し訳がないと云うのほかは無かった。嫁入り後の出来事ではあり、殊に乱心というのでは、その父を責めるわけにも行かない。彼は御親類たちに合わせる顔も無いと云って、久兵衛が葬式の日にも、初七日《しょなのか》の墓参の日にも、自分から遠慮して参列しなかった。ひとり娘を失った上に、今度は鍋久からの仕送りも絶えるのであるから、彼も定めて難儀であろう。所詮《しょせん》は一種の因縁で、すべての人の不幸であると、勘兵衛は凋《しお》れながら話した。
「今日はこれで帰りましょう。おかみさんを大事におしなさい」と、徳次は帰り支度にかかっ
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