駈け出した。暗い夜で、雨は降りしきっている。その闇のなかをお節は駈けた。店の者共も追った。しかもお節は遠くも行かずに、眼の前の新堀川へ身を跳らせて飛び込んでしまった。
「身投げだ、身投げだ。若いおかみさんが身を投げた」
騒ぎはいよいよ大きくなって、店からは幾張《いくはり》の提灯をとぼして出た。近所の店の者も提灯を振って加勢に出た。大勢の人々が雨夜の河岸《かし》を奔走して、そこか此処かと探し廻ったが、二、三日降りつづいて水嵩の増している川の面《おも》に、お節の姿は浮かびあがらなかった。河岸につないである小舟を出して、無益にそこらを尋ね明かしているうちに、その夜はむなしく更《ふ》けて行った。
「これが昼間ならばなあ」
何分にもこの時代の夜は不便であった。岸の上に、水の上に、無数にひらめく提灯の火も、遂に若い女ひとりの姿を見出し得ずに終った。この川下《かわしも》は永代橋である。死体はそこまで押し流されて、広い海へ送り出されてしまったのかも知れない。人々は唯いたずらに溜息をつくばかりであった。
お節の身投げも意外の椿事に相違なかったが、鍋久の家内には更におそろしい椿事が出来《しゅったい》していた。主人の久兵衛は何者にか頸《くび》すじを斬られて、半身を朱《あけ》に染めて倒れていたのである。おきぬがそれを発見した時、彼はもう息の絶えた亡骸《なきがら》となっていた。
久兵衛を殺したのは何者か。若い者の新次郎がお節を追い捉えようとした時に、投げ付けられたのは剃刀《かみそり》であって、それは店さきの往来で発見された。新次郎は別に怪我もなかったが、お節が刃物をたずさえて狂い出したのを見れば、彼女が夫の久兵衛を殺害して、自分も入水《じゅすい》したものと認めるのほかは無い。
検視の役人らもそう鑑定した。立ち会いの医者の意見も同様で、おそらくお節が突然に乱心して、夫を殺し、自分も自滅したのであろうというのであった。その日の朝から彼女の様子が常に変って見えたというのも、それを証拠立てる一つの材料となった。
いつの世にも乱心者はある。乱心者が何事を仕出来《しでか》そうとも致し方がないというので、役人らも深い詮議をしなかった。鍋久でも世間の手前、この一件を余り公《おおや》け沙汰にしたくないので、役人らにもよろしく頼んで、いっさいを内分に納めることにした。主人久兵衛は急病頓死と披露して、ともかくも型の如くに葬式を済ませた。お節の死骸は遂に発見されなかった。
こうして一旦は納まったものの、お節の入水も久兵衛の変死も近所ではみな知っているのであるから、人の口に戸は立てられぬという譬《たと》えの通りで、その噂はそれからそれへと伝わって、神田の吉五郎の耳にもはいった。
「鍋久の嫁が剃刀で亭主を殺した……。気ちがいに刃物とは全くこの事だから、どうも仕方がねえ。だが、旦那方の詮議もちっと足りねえようだな」
「すこし洗ってみましょうか」と、子分の徳次が云った。
「権兵衛のあとへ廻って、鴉《からす》がほじくるのも好くねえが、まあちっとほじってみろ。どうも気が済まねえことがあるようだ。おい、半七、おめえも徳次に付いて行って、御用を見習え」
「その時わたくしはまだ十九の駈け出しで……」と、半七老人はここで註を入れた。「後には吉五郎の養子になって、まあ二代目の親分株になったんですが、その頃は一向に意気地がありません。いわば見習いの格で、古参《こさん》の人たちのあとに付いて、ああしろこうしろのお指図次第に、尻ッ端折《ぱしょり》で駈けずり廻っていたんですから、時には泣くような事もありましたよ」
三
徳次に連れられて、半七が日本橋へ出て行ったのは、八月八日の朝であった。北新堀の鍋久をたずねて、番頭さんに逢いたいと云い込むと、勘兵衛はすぐに出て来た。岡っ引と知って、彼はちょっとその顔を陰らせたが、また俄《にわ》かに思い返したようにこころよく二人を奥へ案内した。ここは地方から出て来た商売用の客を接待する座敷であるらしく、床の間、ちがい棚の造作《ぞうさく》もなかなか整っていた。
「おかみさんは少し体を悪くいたして、あちらに臥《ふ》せって居りますので、御用はわたくしに承われと申すことでございます」と、番頭は丁寧に頭を下げた。
「ごもっともです」と、徳次も挨拶した。「いろいろと心配事が重なって、おかみさんも弱りなさる筈だ。そこで番頭さん。若いおかみさんの行方《ゆくえ》はまだ知れませんかえ」
「知れたと申しましょうか、知れないと申しましょうか。実はおとといの夕方、品川の弥平さんというお人が見えまして……」と、番頭は云った。「その人が前の晩に舟を出して、品川の海で海鰻《あなご》の夜釣りをしていたそうでございます。そこへ一人の女の死骸が流れてまいりましたので、気味が悪いと思
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