ぜに》をやって、半七はここを出ると、幸次郎もつづいて出た。
「親分、女の亭主という奴はもう来ねえでしょうか」
「来ねえだろうな。困ったことには、人足どもが見付け出したのだから、方々へ行ってしゃべるだろう。そんな噂が立つと、奴らもきっと用心して証拠物を隠してしまうに相違ねえ。気の早い奴はどこへか飛んでしまうかも知れねえ。ぐずぐずしていると折角の魚に網を破られてしまう。何とか早く埒を明けてえものだな」
「橋番のおやじがもう少し気が利《き》いていりゃあ何とかなるのだが……」
「あんな耄碌《もうろく》おやじを頼りにしていて、上《かみ》の御用が勤まるものか」と、半七は笑った。「まあ、柳橋の方へ行ってみよう」
 女の亭主らしい男が柳橋の方角から来たというだけのことで、その方角へ向ってゆくのは甚だ知恵のない話のようであるが、柳橋の方角から来たというのに対して、本所深川の方角へ向うわけには行かない。たとい何の当てが無くとも、ともかくもその方角へむかって探索を進めてゆくのが、その時代の探索の定石《じょうせき》であると、半七老人は説明した。
 前にもいう通り、橋の工事で広小路はふだんよりもさびれていたが、それでも食物屋《くいものや》のほかに、大道商人《だいどうあきんど》や大道易者の店も相当にならんでいた。易者は筮竹《ぜいちく》を襟にさし、手に天眼鏡を持ってなにか勿体らしい講釈をしていると、その前にうつむいて熱心に耳を傾けているのは、十八九ぐらいの小綺麗な女であった。半七は幸次郎をみかえって訊いた。
「おい、おめえはあの女を知っているかえ」
「冗談じゃあねえ。いくらわっしだって、江戸じゅうの女をみんな知っているものか」
 云いながら、幸次郎は女の横顔をのぞいて、笑い出した。
「いや、知っています、知っています。あれは奥山《おくやま》のお光ですよ」
「むむ、宮戸川のお光か。道理で、見たような女だと思った。あいつ、いい亡者《もうじゃ》になって大道占いに絞られている。はは、色男でも出来たかな」
「色男でも出来たか、おふくろと喧嘩でもしたか。まあ、そんなところでしょうね」
 自分の噂をされているとも知らずに、お光は見料《けんりょう》の銭《ぜに》を置いて易者の店を出た。本来ならば唯そのままに行き過ぎてしまうのであるが、虫が知らせるというのか、半七は立ちどまって彼女のうしろ姿を暫く眺めていると、お光は更に両国橋に向って辿って行った。彼女は島田髷の頭を重そうに垂れて、なにかの苦労ありげに悄然としているのが半七の注意をひいたので、彼は幸次郎に眼配《めくば》せしながら、小戻りして其のあとを追った。
 お光はそれにも気がつかないらしく、狭い仮橋の中程を行きつ戻りつしていたが、やがて立ち停まって四辺《あたり》を見まわしながら、川にむかってそっと手をあわせた。口の中でもなにか念じているらしかった。半七は幸次郎にささやいて、再び橋番の小屋へはいった。
「爺さん、又来たよ、おれはちょいと奥を貸して貰うぜ」
 半七は障子をあけて小屋の奥に身を忍ばせると、やがてお光が帰って来た。それを待ち受けていた幸次郎は声をかけた。
「おい、お光ちゃん。どこへ行った」
 呼ばれてお光は驚いたように振り返った。その顔は陰って蒼ざめていた。
「どうしたえ。ひどく顔の色が悪いじゃあねえか。麻疹《はしか》かえ。はは、そりゃあ冗談だ。なにしろまあここへ掛けねえ」と、幸次郎は笑いながら呼び込んだ。
 お光は奥山の宮戸川という茶店の女で、幸次郎の職業もかねて知っているのであるから、呼びかけられて素通りも出来なかった。彼女は努めて笑顔を粧《つく》って、愛想よく挨拶した。
「おや、幸さん。急にお暑くなったようでございますね。きょうはこちらで何かのお見張りですか」
「なに、見張りというわけでもねえ。あんまりからだが閑《ひま》だから、野幇間《のだいこ》とおなじように、ここらへ出て来て岡釣りよ。そういう俺よりも、お光ちゃんこそ忙がしいからだで、ここらへ何しに出て来たのだ。おめえも色男の岡釣りかえ」
「ほほ、御冗談でしょう。両国橋が御普請《ごふしん》だというので、どんな様子か拝見に出て来たんですよ」
「と云うのは、世を忍ぶ仮の名で、占い者にお手の筋を見て貰って……。それから両国の川へ行ってお念仏を唱えて……。これから何処へかお寺参りにでも行くのかね。はは、お若けえのに御奇特《ごきどく》なことだ」
 お光は顔の色を変えて、暫く無言で相手の顔を見つめていた。客商売に馴れている彼女も、当座の返事に困ったらしい。そこへ附け込んで、幸次郎は嚇すように云った。
「おい、お光。正直に云えよ。おめえは何でこの川へ来て拝んでいたのだ。後生《ごしょう》願いに放し鰻をするほどの皺くちゃ婆さんでもあるめえ。それとも男を散々だました罪亡ぼしかえ
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