。おい、唯の人が訊くのじゃあねえ。おれが訊くのだ。正直に云えよ」
 彼女はやはり黙って俯向いていたが、その顔色はいよいよ蒼ざめて来たので、幸次郎は嵩《かさ》にかかって嚇し付けた。
「こいつ、わる強情な女だな。おい、爺さん、縄を持って来い。この阿魔《あま》をふん縛ってしまうから……」
 如何にこの時代でも、単にこれだけのことで無闇に人を縛ることの出来ないのは判り切っているのであるが、若い女はその嚇しに乗せられたのか、但しはほかに仔細があるのか、縄をかけると聞いて彼女はひどくおびえた。口を利くにも利かれず、逃げるにも逃げられず、彼女は身を固くして立ちすくんでいた。
 ここらで好かろうと、半七は奥からふらりと出て来た。
「何だか嚇かされているじゃあねえか。宮戸川のお光が縄付きになったら、泣く人がたくさんあるだろう。なんとか助けてやりてえものだな」
 幸次郎一人でさえも受け切れないところへ、又その親分が不意にあらわれて来たので、お光の顔は蒼いのを通り越して、土のような色になってしまった。

     三

「おい、お光。おれは幸次郎のように嚇かしゃあしねえ」と、半七は賺《すか》すように云い出した。「若い女をおどしにかけて白状させたと云われちゃあ、御用聞きの名折れになる。おれはおとなしくおめえに云って聞かせるのだ。その積りで、まあ聴け。宮戸川のお光には此の頃いい旦那が出来て、当人も仕合わせ、おふくろも喜んでいる。ところが、その旦那には女房がある。これがお定まりのやきもちで、いろいろのごたごたが起る。その挙げ句の果てに、女房は二日の晩にこの大川へ飛び込んだ。亭主もいい心持はしねえから、毎日この川へ覗きに来る。お光も寝覚めが悪いから、ひょっとすると、その枕もとへ女房の幽霊でも出るのかも知れねえ。そこで自分も大川へ来て、人に知れねえように南無阿弥陀仏か南無妙法蓮華経を唱えている。話の筋はまあこうだ。大道占いはどんな卦《け》を置いたか知らねえが、おれの天眼鏡の方が見透しの筈だ。おい、どうだ。おれにも幾らか見料を出してもよかろう」
「恐れ入りました」と、お光はふるえながら微かに答えた。
「おい、幸」と、半七は笑った。「恐れ入りましたと云う以上は、弱い者いじめをしちゃあいけねえ。これからはお互いに仲良くするのだ。そこで、お光。その旦那というのは何処の人だ」
「田町《たまち》でございます」
「浅草の田町だな」
「はい。袖摺稲荷《そですりいなり》の近所で……」
「なんという男で、何商売をしている」
「宗兵衛と申しまして、金貸しを商売にして居ります。おもに吉原へ出入りをする人達に貸し付けているのだそうで……」
「じゃあ、小金《こがね》を貸しているのだな、身上《しんしょう》はいいのか」
「よくは知りませんが、不自由は無いようでございます」
「おめえは宗兵衛の女房を知っているのか」
「知って居ります」と、お光は云い淀みながら答えた。「あたしの家《うち》へ幾度も来たことがありますので……」
「おめえの家はどこだ」
「馬道《うまみち》の露路の中でございます」
「女房が何しに来た。暴れ込んで来たのか」
「旦那を迎えに……。初めのうちは旦那も素直に帰ったんですが、しまいには喧嘩を始めて……。おっ母さんも、あたしも困ったことがあります。この二日の晩にも、旦那がよっぽど酔っているところへ、おかみさんが押し掛けて来て、とうとう大喧嘩になってしまって……。旦那はおかみさんを引き摺り倒して、乱暴に踏んだり蹴ったりするので、あたし達もみかねて仲へはいって、ともかくもおかみさんを宥《なだ》めて表へ連れ出そうとすると、おかみさんはもう半気違いのようになっていて、鬼のような顔をして旦那を睨んで、この野郎め、おぼえていろ、あたしが死んでも、蝋燭が物を云うぞ……」
「蝋燭が物を云うぞ……。女房がそんなことを云ったのか」と、半七は訊き返した。
「云いました」と、お光はうなずいた。「そうして、あたし達を突きのけて、跣足《はだし》で表へ駈け出してしまいました。旦那は平気で冷《せせ》ら笑って、あいつは陽気のせいでちっと取り逆上《のぼ》せているのだ。あんな気違いに構うな、構うなと云って、相変らずお酒を飲んでいましたが、そのうちにふい[#「ふい」に傍点]と気がついたように、急ぎの用を思い出したから直ぐに帰ると云い出して、雨の降るなかを帰って行きました」
「そりゃあ何刻《なんどき》だ」
「弁天山の四ツがきこえる前でした」
「その後に宗兵衛はおめえの家《うち》へ顔を見せたか」
「一度も来ません」
「その仮橋から身を投げたのは宗兵衛の女房だということを、おめえはどうして知っているのだ」
「今も申す通り、あの晩おかみさんが出て行く時に、あたしが死んでも蝋燭が物を云う……。それが耳に残っているところへ、きのう
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