なことを考えたこともございません」と、お国は低い声で云った。
「それもそうだが……」と、云いかけて半七も俄かに声を低めた。「おい、あの柳のかげに立っているのは藤次郎じゃあねえか」
 お国は伸びあがって表を覗いたが、やがて無言でうなずいた。それと同時に、藤次郎は柳のかげからそっと立ち去ろうとしたので、半七は急に声をかけた。
「やい、藤次郎、待て。熊、早くあの野郎をしょび[#「しょび」に傍点]いて来い、逃がすな」
 熊蔵はすぐに店から飛び出して、藤次郎の腕を引っ掴むと、かれは案外におとなしく引き摺られて来た。半七はしばらくその顔をじっと睨んでいたが、やがて又にやりと笑った。
「藤次郎。貴様は運のいい奴だな。はは、とぼけた面《つら》をするな。平七を身代りにやって、てめえは涼しい顔をして澄ましていちゃあ、第一に天とう様に済むめえ。伊豆屋の妻吉はどんな調べをしたか知らねえが、おれの吟味はちっと暴《あら》っぽいからそう思え。と、こう云って聞かせたら、大抵は胸にこたえる筈だ。野郎、恐れ入ったか」
「それはどういう御詮議でございますか」と、藤次郎はしずかに答えた。「平七の一件ならば、この間から二度も三
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