なことを考えたこともございません」と、お国は低い声で云った。
「それもそうだが……」と、云いかけて半七も俄かに声を低めた。「おい、あの柳のかげに立っているのは藤次郎じゃあねえか」
お国は伸びあがって表を覗いたが、やがて無言でうなずいた。それと同時に、藤次郎は柳のかげからそっと立ち去ろうとしたので、半七は急に声をかけた。
「やい、藤次郎、待て。熊、早くあの野郎をしょび[#「しょび」に傍点]いて来い、逃がすな」
熊蔵はすぐに店から飛び出して、藤次郎の腕を引っ掴むと、かれは案外におとなしく引き摺られて来た。半七はしばらくその顔をじっと睨んでいたが、やがて又にやりと笑った。
「藤次郎。貴様は運のいい奴だな。はは、とぼけた面《つら》をするな。平七を身代りにやって、てめえは涼しい顔をして澄ましていちゃあ、第一に天とう様に済むめえ。伊豆屋の妻吉はどんな調べをしたか知らねえが、おれの吟味はちっと暴《あら》っぽいからそう思え。と、こう云って聞かせたら、大抵は胸にこたえる筈だ。野郎、恐れ入ったか」
「それはどういう御詮議でございますか」と、藤次郎はしずかに答えた。「平七の一件ならば、この間から二度も三度も番屋へ呼ばれまして、何もかも申し上げたのでございますが……」
「伊豆屋は伊豆屋、おれは俺だ。三河町の半七は別に調べることがあるんだ。やい、藤次郎。貴様は三月二十一日の朝、なんでここの家《うち》の戸を叩いた」
「大木戸で待ちあわせる約束をいたしましたので、そこへ行ってみますと誰もまだ来て居りません。しばらく待って居りましたが、庄五郎も平七も見えませんので、どうしたのかと思って念のために引っ返してまいったのでございます」
「その時にここの家の戸は締まっていたな」
「はい。締まっているので叩きました」
「そうして、おかみさん、おかみさんと呼んだな」
「はい」
「それ、見ろ。馬鹿野郎」と、半七は叱るように云った。「問うに落ちず、語るに落ちるとはそのことだぞ」
「なぜでございます」と、藤次郎は不思議そうに相手の顔を見あげた。
「まだ判らねえか。よく考えてみろ。約束の庄五郎が見えねえというので、ここの家へ尋ねに来たのなら、なぜ庄五郎の名を呼ばねえ。まず庄五郎の名を呼んで、それで返事がなかったら女房の名を呼ぶのが当りめえだ。初めからおかみさん、おかみさんと呼ぶ以上は、亭主のいねえのを承知に相違ねえ」
藤次郎の顔色はにわかに変った。かれは吃《ども》りながら何か云おうとするのを、押さえ付けるように半七は又云った。
「亭主は貴様が押し片付けてしまったのだから、ここの家にいる筈がねえ。そこで、貴様は女房を呼んだのだ。はは、これだから悪いことは出来ねえ。いや、まだ云って聞かせることがある。二度目にここの家の戸をたたいたのは、貴様が冗談に庄五郎の声色を使ったのだということだが、そりゃあ嘘の皮で、やっぱり本物の庄五郎が引っ返して来たに相違ねえ」
「いえ、それは……」と、藤次郎もあわてて打ち消そうとした。
「まあ、黙って聞け。三人のうち庄五郎が一番先に出て行って、その次に平七がここの家へ誘いに来たのだ。いくら待っても誰も出て来ねえので、庄五郎は引っ返して尋ねに来たのだが、まだ薄っ暗いので平七と途中で行き違いになったらしい。それがそもそも間違いのもとで、平七は待ちくたびれて茶店の葭簀《よしず》のなかで寝込んでしまった。そこへ貴様が来たか、庄五郎が来たか、なにしろ二人が落ち合って……。それから先は、おれよりも貴様の方がよく知っている筈だぞ。そうして、白ばっくれてここの家へたずねて来た……。どうだ、おれの天眼鏡に陰《くも》りはあるめえ。来年から大道うらないを始めるから贔屓にしてくれ。そこで貴様もまさかに最初から庄五郎を葬ってしまう気でもなかったろうが、眼と鼻のあいだの葭簀のなかに平七が寝込んでいるとも知らねえで、その来るのを待っているうちに、場所は海端、あたりは暗し、まだ人通りも少ねえので、ふっと悪い料簡をおこしたのだろう。可哀そうなのは平七の野郎だ。あの女に亭主が無けりゃなんて、つまらねえことを云ったのが引っかかりになって、伊豆屋の手に引き挙げられたので、貴様はまた悪知恵を出した。庄五郎が一旦引っ返して来たなんて云うと、その詮議がまた面倒になると思って、実は自分が庄五郎の声色を使ったのだといい加減の出たらめを云って、なるべくこの一件の埒を早くあけて、罪もねえ平七を人身御供《ひとみごくう》にあげてしまう積りだったのだろう。はは、悪い奴だ、横着な奴だ。だが、考えてみると貴様も正直者かも知れねえ。一体、そんなことは知らねえ顔をしていても済むことだ。なまじいに余計な小刀細工《こがたなざいく》をするから、却って貴様にうたがいが懸かるとは知らねえか。さあ、ありがたい和尚様がこれほどの長
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