奴の冗談だそうですよ」
「冗談だ……」
「ええ。三人のなかでは建具職の藤次郎という奴が一番あとから出て来たんです。そいつが冗談半分に庄五郎の声色《こわいろ》を使って、鋳掛屋の門をたたくと、女房は寝入っていて小僧が返事をした。女房だったならば、何か戯《からか》うつもりだったかも知れねえが、小僧じゃ仕方がねえので、藤次郎もそのまま行ってしまったんだそうですよ。それは当人の白状だから間違いはありますめえ。こんなつまらねえ冗談をする奴があるので、ときどきに探索もこじれるんですね」
「むむ。そこで、熊。面倒でもその高輪の一件をもう一度、初めからすっかり委《くわ》しく話してくれ」と、半七は云った。
「まだ腑に落ちねえことがありますかえ」
 気乗りのしないような顔をして、熊蔵がぽつりぽつり話し出すのを、半七は薄く眼をとじて黙って聴いてしまった。
「いや、御苦労。おれはこれから少し用があるから、きょうはもう帰ってくれ。ひょっとすると、あしたはお前の家へ尋ねて行くかも知れねえから、家をあけねえで待っていてくれ」
「あい。ようがす」
 熊蔵を帰したあとで、半七は長火鉢の前に唯ひとり坐っていた。最初に鋳掛屋の戸をたたいて、「庄さん、庄さん」と呼んだのは、今度の下手人と目指されている平七の声である。次に鋳かけ屋の戸をたたいて「平さんは来なかったか」と呼んだのは、亭主の庄五郎の声で、実は藤次郎の声色だというのである。最後に戸を叩いて「おかみさん、おかみさん」と、呼んだのは、藤次郎の声である――この三つの声について、半七はいろいろ考えさせられた。
「おい、お仙」と、彼はやがて女房を呼んだ。「ちょいと出てくるから着物を出してくれ」
「これから何処へ出かけるの」
「熊のところまで行ってくる。あしたと約束したのだが、思いついたら早い方がいい。このごろは日が長げえから」
 まったくこの頃の日は長い。半七が神田の家を出たのはもう七ツ(午後四時)に近いころであったが、初夏の大空はまだ青々と明るく光っていた。表には金魚を売る声がきこえた。愛宕下へ行って熊蔵の湯屋をたずねたが、店はもう客の忙がしい刻限であったので、半七は裏口へまわってそっと呼び出すと、熊蔵はきょろきょろしながら出て来た。
「親分。早うござんしたね」
「むむ。急に思いついたことが出来たので、すぐに出て来た。これから田町《たまち》へ案内してくれ」
「庄五郎の家《うち》ですかえ」と、熊蔵はいよいよ其の眼をひからせた。「親分。なにか当りがあるんですかえ」
「まあ、行ってみなけりゃあ判らねえ」
 熊蔵に案内させて田町の鋳掛屋へ出かけてゆくと、隣りは小さい下駄屋で、その店との境に一本の柳が繁って垂れているのも、思いなしか何となく寂しくみえた。三十五日が過ぎれば世帯をたたむ筈になっているので、店こそ明けてあるが商売は休みで、小僧の次八がぼんやりと往来をながめていた。
「おかみさんはいるかえ」と、熊蔵は訊《き》いた。
「奥にいますよ。呼んできましょうか」
「呼んでくれ」
 手拭で着物の裾をはたきながら、二人が店さきに腰をおろすと、奥では針仕事でもしていたらしく、鈴の付いた鋏を置く音がして、むすび髪の若い女房がすこしく窶《やつ》れた青白い顔を出した。
「この親分は御用で来なすったのだから、そのつもりで返事をしねえじゃあいけねえぜ」
 お国は熊蔵を識らなかった。勿論、半七を識ろう筈はなかった。しかも御用という声をきいて、かれは神妙に店さきにうずくまった。いたずら小僧らしい次八もおとなしく小膝をついた。
「いや、別にむずかしい詮議をするんじゃあねえ」と、半七はしずかに云い出した。「早速だが、おかみさん、あの朝、一番さきに戸を叩いたのは確かに平七の声だったな」
「はい。庄さん、庄さんと呼んだだけでしたが、たしかに平さんの声でございました」と、お国は淀みなく答えた。
「二度目の声はお前は聞かなかったんだね」
「つい眠ってしまいまして……」と、お国はすこし極まり悪そうに答えた。「この次八が返事をいたしたのでございます」
「たしかに親方の声だったか」と、半七は小僧を見かえって訊《き》いた。
「わたしも半分夢中でよく判らなかったんですが、どうも親方のようでした」と、次八は云った。
「三度目のは藤次郎だね」
「はい。この時にはわたくしが起きていたのでございます」と、お国は答えた。
「藤次郎は外から、おかみさん、おかみさんと呼んだのかえ」
「はい」
「御亭主がいなくなってから、平七と藤次郎は大層親切に世話をしてくれるそうだね」
 お国はすこし顔を紅《あか》くして黙っていた。
「こんなことを訊くのも何だが」と、半七は笑いながら云い出した。「お前はどっちかの男のところへ再縁する気があるのかえ」
「いえ、まだ三十五日も済みませんのですから、そん
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