礼をいう奴があるか」と、平七はまた呶鳴った。
 この捫著《もんちゃく》はお国という若後家を中心として渦巻き起ったらしい。平七はお国と同い年の二十三歳で、まだ独り者である。藤次郎は二十七歳で、これも女房におとどし死に別れて今は男やもめである。一方は先夫と従弟《いとこ》同士、一方は先夫の親しい友達というのであるから、その亡きあとの面倒をみてやるのはむしろ当然の義理ではあるが、容貌のよい若後家に対して、ふたりの若い男があまり立ち入って世話を焼き過ぎるというのが、この頃は近所の噂にものぼっていた。その二人が今夜もお国の家で落ち合って、その帰り路に往来なかで掴み合いを始めたのであるから、喧嘩の仔細の大かたは想像されるので、仲裁に出る人たちも先ずいい加減になだめていると、暗いなかから不意に一人の男が出て来た。
「おい。二人ともそこまで来てくれ」
「どこへ行くんです」と、藤次郎は訊《き》いた。
「番屋までちょいと来てくれ」
 番屋と聞いて二人はすこし驚いたが、相手が唯の人らしくないと覚ったので、そのまま素直に町内の自身番へ引っ立てられて行った。高輪《たかなわ》には伊豆屋弥平といういい顔の岡っ引があって、今はその伜が二代目を継いでいる。平七と藤次郎を引っ立てて行ったのは、その子分の妻吉という男であった。
「ひとりは鋳掛職の平七、ひとりは建具屋の藤次郎、それに相違あるめえな」と、妻吉はまず念を押した。
「てめえ達は雨のふる最中に、泥だらけになって何を騒いでいるんだ」
「へえ。おたがいに気が早いもんですから、つまらないことで喧嘩を始めました。お手数《てかず》をかけまして相済みません」と、年上だけに藤次郎が先に答えた。
「いや、喧嘩の筋も大抵わかっている。これ、平七。貴様は三月二十一日の朝、鋳掛屋の庄五郎と一緒に川崎へ行く約束をしたそうだな」
「へえ」
「この藤次郎と三人で行く約束をしたのだそうだが、その朝は貴様が一番さきに行っていたな」
「いえ。出がけに庄五郎の家《うち》へ声をかけましたら、もう出て行ったということでございました」
「嘘をつけ」と、妻吉は行灯のまえで睨みつけた。「貴様は先に行っていて、それから引っ返して家へ行ったのだろう。真っ直ぐに云え」
「いえ、出がけに寄ったのでございます」
 妻吉は舌打ちした。
「やい、やい。つまらねえ手数をかけるな。なんでも話は早いがいい。貴様は
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