聞きながら、半七は子分の松吉をつれて朝の六ツ半(午前七時)頃に神田三河町の家を出た。ほかの子分たちも高輪《たかなわ》まで送って来た。この頃は毎日の晴天つづきで、綿入れの旅はもう暖か過ぎるくらいであった。品川の海の空はうららかに晴れ渡って、御殿山のおそい桜も散りかかっていた。
「親分。今頃の旅はようがすね」と、松吉はのんきそうに云った。
「まったくだ。これで御用がなけりゃあ猶更いいんだが、そうもいかねえ。まあ、浜見物をするつもりで出かけるんだな」
「そうですよ。わっしは是非一度行って見たいと思っていたんですよ」
一昨年(安政六年)の六月二日に横浜の港が開かれると、すぐに海岸通り、北仲通り、本町通り、弁天通りが開かれる。野毛《のげ》の橋が架《か》けられる。あくる万延元年の四月には、太田屋新田の沼地をうずめて港崎《みよざき》町の遊廓が開かれる。外国の商人館が出来る。それからそれへと目ざましく発展するので、この頃では横浜見物も一つの流行《はやり》ものになって、江戸から一夜泊まりで見物に出かける者もなかなか多かった。
年の若い松吉は御用の旅で横浜見物が出来るのをよろこんで、江戸をたつ時から威勢がよかった。半七は去年も一度行ったことがあるので、まず大抵の見当はついていたが、日増しに開けてゆく新らしい港の町が一年のあいだにどう変ったかと、これも少なからぬ興味をそそられて、暮春の東海道を愉快にあるいて行った。
その頃は高島町の埋立てもなかったので、ふたりは先ず神奈川の宿《しゅく》にゆき着いて、宮の渡しから十六文の渡し船に乗って、平野間(今の平沼)の西をまわって、初めて横浜の土を踏んだのは、その日の夕七ツ半(午後五時)頃であった。すぐに戸部の奉行所へ行って、御用の探索で来たことを一応とどけて置いて、半七はそれから何処かの宿屋を探しに出ると、往来でひとりのわかい男に逢った。
「三河町の親分じゃありませんか」と、彼はうす暗いなかで透かしながら声をかけた。
三
半七と松吉も立ちどまった。
「やあ、三五郎か、いいところで逢った。実はどっかへ宿を取って、それからおめえのところへ行こうと思っていたんだ」と、半七は云った。
「そりゃあ丁度ようござんした。松さんもいつも達者で結構だ。まあ、なにしろ往来で話も出来ねえ。そこらまで御案内しましょう」
三五郎は先に立って行った。かれ
前へ
次へ
全18ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
岡本 綺堂 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング