半七捕物帳
異人の首
岡本綺堂
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)用達《ようたし》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)燈台|下《もと》暗し
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぼや[#「ぼや」に傍点]か
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一
文久元年三月十七日の夕六ツ頃であった。半七が用達《ようたし》から帰って来て、女房のお仙と差し向いで夕飯をくっていると、妹のお粂がたずねて来た。お粂は文字房という常磐津の師匠で、母と共に外神田の明神下に暮らしていることはすでに紹介した。
「いい陽気になりました」と、お粂はまだ白い歯をみせて笑いながら会釈《えしゃく》した。「姉さん。今年はもうお花見に行って……」
「いいえ、どこへも……」と、お仙も笑いながら答えた。「なにしろ、内の人が忙がしいもんだから、あたしもやっぱり出る暇がなくってね」
「兄さんもまだ……」
「この御時節に、のんきなお花見なんぞしていられるものか。からだが二つあっても足りねえくらいだ」と、半七は云った。「お花見の手拭きや日傘をかつぎ込んで来ても、ことしは御免だよ」
「あら、気が早い。そんなことで来たんじゃないのよ」と、お粂は少しまじめになった。「兄さん、ゆうべの末広町《すえひろちょう》の一件をもう知っているの」
「末広町……。なんだ、ぼや[#「ぼや」に傍点]か」
「冗談じゃあない。ぼや[#「ぼや」に傍点]ぐらいをわざわざ御注進に駈けつけて来るもんですか。じゃあ、やっぱり知らないのね。燈台|下《もと》暗しとか云って自分の縄張り内のことを……」
「ゆうべのことなら、もうおれの耳にはいっている筈だが……。ほんとうに何だ」と、半七も少しまじめになって向き直った。
「それを話す前に、実はね、兄さん。この二十一日に飛鳥山《あすかやま》へお花見に行こうと思っているんです。なんだか世間がそうぞうしいから、いっそ今年はお見あわせにしようかと云っていたんですけれど、やっぱり若い衆《しゅ》たちが納まらないので、いつもの通り押し出すことになったんです。向島はこのごろ酔っ払いの浪人の素破《すっぱ》抜きが多いというから、すこし遠くっても飛鳥山の方がよかろうというので、子供たちや何かで三十人ばかりは揃ったんですが、なるたけ一人でも多い方が景気がいいから、なんとか都合がつくなら姉さん
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