》が気にくわない。こっちが判官で、あいつに窘《いじ》められるかと思うと忌《いや》になる」
 今度の狂言は「忠臣蔵」の通しで、師直と本蔵を使うのはかの吉田冠蔵であった。かたき同士の冠蔵を相手にして、三段目の喧嘩場をつかうのは紋作として面白くなかった。いっそ病気を云い立てにして今度の芝居を休んでしまおうと思っていた。
「でも、休んじゃ困るでしょう、この暮にさしかかって……」
「なに、どうにかなるさ」と、紋作は誇るように笑った。「芝居を一度や二度休んだって、まさかに雑煮《ぞうに》が祝えないほどのこともあるまい」
「そりゃあそうかも知れないわ。根岸の叔母さんが付いているから」と、お浜は口唇《くちびる》をそらして皮肉らしく云った。
 紋作が根岸の叔母をたずねて、ときどきに小遣いを貰ってくることをお浜は知っていた。しかしその叔母というのがなんだか怪しいものであった。お浜がいくら詮議しても、紋作が正直にその叔母の住所も身分も明かさないのをみると、どんな叔母さんだか判ったものではないと彼女はふだんから疑っていた。きょうもふと云い出したその忌味《いやみ》を、相手は一向通じないように聞きながしているので、若いお浜の嫉妬心はむらむらと渦巻いておこった。
「ねえ、紋作さん。そうでしょう。おまえさんには根岸のいい叔母さんが付いているからでしょう。芝居に行かなくっても、ここの家《うち》にいなくっても、ちっとも困らないんでしょう」
「そういう気楽な身分と見えるかしら。まあ、それでもいいのさ」と、紋作はやはり相手にしようとはしなかった。
 なんだか馬鹿扱いにされているようで、お浜はいよいよ口惜《くや》しくなった。かれは膝を突っかけて又何か云い出そうとする時に、下から母のお直の呼ぶ声がきこえた。
「お浜や。紋作さんのところへお客様」
 来客と聞いて、お浜もよんどころなく立ち上がって、階子《はしご》をあがって来る三十四五歳の芸人を迎えた。かれは紋作の兄弟子《あにでし》の紋七という男であった。
「お浜さん。いつも化粧《やつ》していやはるな。初日まえで忙がしいやろ」
 笑いながら挨拶して、紋七は長火鉢のまえに坐った。お浜が遠慮して起《た》ったあとで、彼はにこやかに云い出した。
「気分はどうや。えろう悪いか」
 かれは病気見舞に来たのであった。冠蔵と紋作との不和を知っている彼は、紋作がきのうから病気を云い立
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