では四年ほど前に主人をうしなって、今では後家のお直《なお》と娘との二人暮らしである。そこへ転がり込んだ紋作は年も若い、芸人だけに垢抜けもしている。したがって近所では彼とお浜とのあいだに、いろいろの噂を立てる者もあったが、母のお直がなんにも聞かない振りをしているのを見ると、ゆくゆくは娘の婿にする料簡であろうなどと、早合点にきめている者もあった。いずれにしても、お浜と紋作とは仲がよかった。
紋作はすこし風邪《かぜ》をひいたというので、小さい長火鉢をまえにして、お浜にこの冬新らしく仕立てて貰った柔らかい広袖を羽織って坐っていた。かれは痩形のすこし疳持ちらしい、見るからに弱々しい男で、うす化粧でもしているかと思われるように、その若い顔を綺麗に光らせていた。お浜はその長火鉢の向うから彼の少し皺《しわ》めている眉のあたりを不安らしくながめた。
「ほんとうに気分が悪いの。振出しでも買って来てあげましょうか」
「なに、それ程でもないのさ」と、紋作は軽く笑った。
「でも、きょうもまた稽古を休むんでしょう。阿母《おっか》さんがさっきそんなことを云っていました」
「なにしろ、頭が重いから」と、紋作は気のないように云った。
「だからお薬をおのみなさいよ。初日前にどっと悪くなると大変だわ」
「悪くなれば休む分《ぶん》のことさ。今度の芝居はあまり気が進まないんだから、どうでもいい。いっそ休む方がいいかも知れない」
十一月の末の時雨《しぐ》れかかった空はまた俄かに薄明るくなって、二階の窓の障子に鳥のかげが映った。お浜は長火鉢に炭をつぎながら呟いた。
「おや、鳥影が……。誰か来るかしら」
「誰か来るといえば、芝居の方から誰も来なかったかしら」
「いいえ、きょうはまだ誰も……」と、お浜は丁寧に炭をつみながら答えた。「定《さだ》さんの話に、おまえさんは今度は役不足だというじゃありませんか」
「役不足という訳じゃあない」と、紋作は膝の前の煙管《きせる》をひき寄せた。「旅へ出てならともかくも、江戸の芝居で、わたしに判官と弥五郎を使わせてくれる。役不足どころか、有難い位のものさ。だが、どうも気が乗らない。今もいう通り、今度の芝居はいっそ休もうかとも思っているんだ」
「なぜ」と、お浜は火箸を灰につき刺しながら向き直った。「あたし、おまえさんの判官がみたいわ。出使いでしょう」
「無論さ。だが、師直《もろのお
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