あの男とここで落ち合って、一緒に心中でもする約束だったんじゃねえか」と、半七はかま[#「かま」に傍点]をかけるように訊いた。
「いいえ。そんなことは決してございません」と、お鉄は小声に力をこめて答えた。
二人はそれぎりで黙ってしまって、暗い柳原の堤《どて》をならんで行った。たとい心中は嘘にしても、かの頬かむりの男とこのお鉄とのあいだに、なにかの因縁があるらしく思われるので、半七はいろいろに考えながら歩いた。枯れ柳の暗いかげを揺りみだす夜風が霜を吹いて、半七は凍るように寒くなった。かれは柳の下に荷をおろしている夜鷹蕎麦《よたかそば》屋の燈火《あかり》をみて思わず足を停めた。
「おい、お鉄さん。どうだ、一杯つき合わねえか」
「わたくしはたくさんでございます」
「まあ、遠慮することはねえ。なにも附き合いというものだ。なにしろ、こう冷えちゃあ遣り切れねえ。まあいいから一杯|手繰《たぐ》って行きねえ」
辞退するお鉄を無理に誘って、半七は熱い蕎麦を二杯たのむと、蕎麦屋は六助といって、下谷から神田の方へも毎晩まわって来る男であった。
「おや、親分さんでございましたか。今晩はどちらへ……」
「おお、六助|老爺《じい》さんか。べらぼうに寒いじゃねえか。今夜はよんどころなしに本所まで行って来たんだが、おめえも毎晩よく稼ぐね」
「へえ。わたくし共は今が書き入れ時でございます」
云いながら彼は、行燈の暗い火に顔をそむけて立っているお鉄に眼をつけた。
「ああ、加賀屋のお鉄さん。今夜は親分と一緒かえ」と、かれは不思議の連れを怪しむように鍋の下をあおぐ団扇《うちわ》の手をやめた。
「なに、途中で一緒になったんで、柳原堤の道行《みちゆき》さ。ははははは」と、半七は笑った。「じいさんなんぞは夜の稼業だ。毎晩こんなものを幾組も見せ付けられるだろうね」
おやじを相手に冗談を云いながら、半七は蕎麦を二杯代えた。そのあいだにお鉄は一杯の半分ほどをようよう啜《すす》り込んだばかりで箸をおいてしまった。
三
外神田の大通りへ出ると、師走の夜の町はまだ明るかった。加賀屋の店もあいていた。自分の店へだんだん近づくに連れて、お鉄は半七に今夜の礼をあつく述べて、店まで親分さんに送って来て貰ってはまことに困るから、どうかここで別れてくれとしきりに頼んだ。主人持ちのかれとしては定めて迷惑するであろうと、半七も万々察していたので、この上かならず不料簡を起さないようにと、くれぐれも念を押してお鉄に別れた。彼はそれでも見えがくれに五、六間ついて行って、お鉄が主人の家の水口《みずくち》へはいるのを見とどけて、それから三河町の家へ帰った。
本人の口からは確かに白状しないが、お鉄が身投げの覚悟であったらしいことは半七にも大抵想像された。どんな事情があるか知らないが、多寡《たか》が若い女のことで、どうでも死ななければならないというほどの深い訳があるのでもあるまい。こうして人間ひとりの命を助けたと思えば、半七は決して悪い心持はしなかった。それから二日ほど経つと、半七は加賀屋の近所でお鉄に出逢った。彼女はどこへか使にでも行くらしく、かなり大きい風呂敷包みを袖の下にかかえながら足早にあるいていた。向うでは気がつかないらしく、別に挨拶もしないで行き違ってしまったが、こうして無事に勤めているのを見て、半七もいよいよ安心した。
節季師走にいろいろの忙がしい用をかかえた半七は、いつまでも加賀屋の女中のことなどに屈託《くったく》してもいられなかった。彼はもうそんなことを忘れてしまって、ほかの御用に毎日追われていると、押し詰った師走ももう十日あまりを過ぎて、いよいよ深川の歳《とし》の市《いち》というその前夜であった。半七は明神下の妹をたずねてゆくと、その町内の角でかの蕎麦屋の六助に出逢った。
「今晩は……。相変らずお寒いことでございます」
「ほんとうに寒いね。押し詰まるといよいよ寒さが身にしみるようだ」
云いかけて半七は不図このあいだの晩のことを思い出した。かれは六助をよび止めて訊いた。
「おい、じいさん。お前にすこし聞きてえことがある。お前はあの加賀屋の女中を前から識っているのかえ」
「へえ、あすこのお店の近所へも商《あきな》いにまいりますので……」
「そりゃあそうだろうが、唯それだけの馴染かえ。ほかにどうということもねえんだね」
相手が相手だけに六助も少し考えているらしかったが、耄碌頭巾《もうろくずきん》のあいだからしょぼしょぼ[#「しょぼしょぼ」に傍点]した眼を仔細らしく皺《しわ》めながら小声で訊き返した。
「親分さん。なにかお調べの御用でもあるんでございますか」
「御用番というほどのことでもねえが、あの晩、おれと一緒にいたお鉄というおんなに情夫《おとこ》でもあるのかえ」
「情
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