た。
「さっきから俺がこんなに口を利いているのがお前にはわからねえのか。橋番へ引き渡すなんて云ったのは俺が悪い。そんな野暮なことは止めにして、ここでお前の話を聞こうじゃあねえか。そうして、どうでも死ななけりゃあ納まらねえ筋があるなら、おれが手伝って殺してやるめえものでもねえ。また死なずとどうにか済みそうな筋合いなら、古い川柳じゃあねえが、ようごんす袂の石を捨てなせえ、と俺も相談に乗ろうじゃあねえか。おい、黙っていちゃあ困る。なんとか返事をしてくれねえか」
「ありがとうございます」と、女はやはり泣いていた。「折角でございますけれど、どうにもこればかりは申し上げられません」
「そりゃあどうで云いづれえことに相違ねえ。だが、云わずにいちゃあ果てしがつかねえ。くどいようだが決して悪くはしねえ。人に明かして悪いことなら、決して他言もしねえ。おれも男だ。こうして誓言《せいごん》を立てた以上は、かならず嘘はつかねえから、まあ安心して話して聞かせるがいいじゃあねえか」
「ありがとうございます」と、女は又すすりあげて泣いた。
「聞いたような声だな」と、半七は首をかしげた。「さっきもそう思ったが、どうも聞き覚えがあるようだ。おめえは識《し》っている人じゃあねえかえ。おれは神田の半七だよ」
 半七の名を聞いて、女は俄かに驚いたらしく、あわてて彼を押しのけるようにして逃げ出そうとした。しかし其の帯ぎわは半七の手にしっかり掴《つか》まれていた。
「おい、なにをする。お前はよくよく判らねえ女だな。もう仕方がねえ。腕ずくだ。さあ、歩《あゆ》べ」
 かれは女の腕を捉えて、橋詰の番小屋へぐんぐん曵き摺ってゆくと、橋番のおやじは安火《あんか》をかかえて宵から居睡りをしているらしく、蝋燭の灯《ひ》までが薄暗くぼんやりと眠っていた。半七はうつむいている女の顔をひき向けて、その灯の前に照らしてみた。
「むむ。おめえは加賀屋の奉公人だな」
 女は加賀屋のお鉄であった。半七は少し聞き合わせることがあって、ゆうべ加賀屋の店に腰をかけて番頭の半右衛門と話していると、小僧たちは湯に行っている留守であったので、奥から女中のお鉄が茶を持って来た。半七は商売だけに一度でかれの声も顔も記憶していたのであった。その加賀屋の女中がなぜ今頃ここらを徘徊して身投げを企てたのであろう。容貌《きりょう》も悪くなし、かつは年頃であるから、その原因はいずれ色恋の縺《もつ》れであろうと半七はすぐに覚《さと》った。
「こうなりゃあ猶さらのことだ。まんざら識らねえ顔じゃあなし、いよいよ此のままで、はい、さようならと云うわけにゃあ行かねえ。それでお前の名はなんというんだっけね」
「鉄と申します」
「むむ。そのお鉄さんがなんで死のうとしたんだ。相手は誰だ。店の者かえ」
「いいえ。そんな訳じゃございません」と、お鉄はあわてて打ち消した。「決してそんな淫奔事《いたずらごと》じゃございません」
 半七は少し的《あて》がはずれた。色恋以外になぜ死ぬ気になったのかと彼はいろいろに詮議したが、お鉄はどうしても口をあかなかった。そればかりはどうしても云われないと強情を張った。いくら嚇《おど》しても賺《すか》しても相手が飽くまでも根強いので、半七もしまいには持て余した。
「おめえ、どうしても云わねえか」
「相済みませんが、どうしても申し上げられません」と、お鉄はどんな拷問をも恐れないというようにきっぱりと云い切った。
 もうこの上は半七もさすがに手の付けようがなかった。さしあたっては別に罪人の疑いがあるというわけでも無し、ことに若い女ひとりをどう処置することも出来なかった。橋番に引き渡してゆくか、それとも本人の家へ送りとどけてやるか、まずその二つより途はないので、半七はいっそ町内まで一緒に連れて行ってやろうと思った。寝ぼけ眼《まなこ》をこすっているおやじには別に委《くわ》しい話もしないで、かれはお鉄をうながして橋番小屋を出た。師走の夜の寒さが身にしみるのか、なにか深い物思いに沈んでいるのか、お鉄は両袖をしっかりとかき合わせて、肩をすくめながらおとなしく付いて来た。
 小屋を出ながら不図《ふと》みかえると、頬かむりをした一人の男が往来にのっそり[#「のっそり」に傍点]と突っ立って、こっちをじっと覗《のぞ》いているらしいのが半七の眼についた。かれは立ちどまってその風体を見定めようとする間《ひま》に、相手は急に身をひるがえして、逃げるように橋を渡って行った。おかしな奴だと半七はしばらく見送っていた。
「おめえ、今の男を識っているのか」と、彼はあるき出しながらお鉄に訊《き》いた。
「いいえ」
 その声の少し震えているのを、半七は聞き逃がさなかった。
「おめえ、寒いのかえ」
「いいえ。別に……」
「だって、なんだか震えているじゃねえか。
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