夫だかなんだか知りませんが、若い男が時々にたずねて来るようです」
 六助の話によると、先頃から一人の若い男がときどきに加賀屋の近所へ来てうろうろしている。自分が荷をおろしているところへ来て、蕎麦を食ったことも二、三度ある。そうして、誰かを待っているらしい素振りであったが、やがてそこへ加賀屋の女中が出て来て、男を暗い小蔭へ連れて行って何かひそひそと囁《ささや》いていたというのである。その年ごろや風俗がこのあいだの晩、両国の橋番小屋の外にうろついていた男によく似ているらしいので、半七はいよいよ彼とお鉄とのあいだに何かの因縁の絆《まつ》わっていることを確かめた。
「その男というのは江戸者じゃございませんよ」と、六助は更に説明した。「どうも熊谷辺の者じゃないかと思われます。わたくしもあの地方の生まれですからよく知っていますが、詞《ことば》の訛《なま》りがどうもそうらしく聞えました。加賀屋の若いおかみさんも女中も熊谷の人ですから。やっぱり何かの知り合いじゃないかと思いますよ」
「そうだろう」と、半七もうなずいた。
 国者《くにもの》同士が江戸で落ち合って、それから何かの関係が出来る。そんなことは一向めずらしくないと彼も思った。このあいだの晩、お鉄が両国橋の上をさまよっていたのも、身投げや心中というほどの複雑《こみい》った問題でもなく、あるいは単に逢曳《あいび》きの約束をきめて、あすこで男を待ち合わせていたのかも知れない。こう考えるといよいよ他愛のない、甚だ詰まらないことになってしまうのであるが、半七の胸にただ一つ残っている疑問は、自分に対するその当時のお鉄の態度であった。かれはどうしてもその事情を打ち明けないと云った。その一生懸命の態度がどうも普通の出会いや逢いびきぐらいのことではないらしく、なにかもう少し入り組んだ仔細が引っからんでいるらしく思われてならなかった。しかし六助もその以上のことはなんにも知らないらしいので、半七もいい加減に挨拶して別れた。
 別れて一、二間あるき出して不図《ふと》みかえると、あたかも彼の立ち去るのを待っていたかのように、頬かむりをした一人の男が蕎麦屋の前に立った。そのうしろ姿が彼《か》の両国橋の男によく似ているので、半七もおもわず立ち停まった。案外無駄骨折りになるかも知れないとは思いながらも、この職業に伴う一種の好奇心も手伝って、かれはそっとあと戻りしてそこらの塀の外にある天水桶のかげに身をひそめていると、今夜も暗い宵で、膝のあたりには土から沁み出してくる霜の寒さが痛いように強く迫って来た。男は熱い蕎麦のけむりを吹きながら、時々にあたりを見まわしているのは、やはりかのお鉄を待ち合わせているのであろうと半七は想像した。
 しかも其のお鉄はなかなか出て来ないので、男はすこし焦《じ》れて来たらしく、二杯の蕎麦を代えてしまって銭《ぜに》を置いて、すっ[#「すっ」に傍点]と出て行った。ここは殆ど下谷と神田との境目にあるところで、南にむかった彼の足が加賀屋の方へ進むのは判り切っているので、半七もその隠れ場所から這い出して、すぐにそのかげを慕ってゆくと、男は果たして加賀屋に近い横町の暗い蔭にはいった。そこで彼は頬かむりを締め直して、両手を袖にしながら再びしばらくたたずんでいると、やがて女の下駄の音がきこえた。女は賑やかな大通りを避けて、うす暗い裏通りから廻り路をして来たらしく、あと先をうかがいながら男のそばへ忍んで行った。
 二人はその後も時々に左右を見かえりながら、なにか小声で囁き合っているようであったが、あいにく其の近いところには適当の隠れ場所が見あたらないので、唯その挙動を遠目にうかがうばかりで、かれらの低い声は半七の耳にとどかなかった。そのうちに談判はどう間違ったのか知らないが、男の声は少しあらくなった。
「じゃあ、どうも仕方がねえ。俺あこれから加賀屋へ行って、おかみさんに直談《じきだん》するだ」
「馬鹿な」と、女はあわててさえぎった。「その位ならこんなに訳を云って頼みやしないじゃないか。なんぼ何でもあんまりだよ。そんな約束じゃない筈だのに……」
 女はくやしそうに震えていた。男はせせら笑った。
「それはそれ、これはこれだよ。だから、おかみさんに訳を話して……。二人でどこへでも行こうじゃねえか」
「そんなことが出来るもんかね」と、女は罵るように云った。
 こうした押し問答が更に二、三度つづいたかと思うと、もう堪え切れない憤怒が一度に破裂したように、女の鋭い叫び声がきこえた。
「畜生。おぼえていろ」
 彼女は帯のあいだから刃物を取り出したらしい。相手の男も不意におどろいたらしいが、半七もおどろいた。彼はすぐに駈けて行って、男を追いまわしている女の利き腕を取り押さえた。女は剃刀《かみそり》を持っていた。
「おい、お鉄
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