文化文政のころに流行《はや》って、一旦すたれて、それが又江戸の末になってちょっと流行ったことがあります。しょせんは一時の珍らしいもの好きで長くはつづかないんですが、それでも流行るときには馬鹿に高い値段で売り買いが出来る。例の万年青《おもと》や兎とおなじわけで、理窟も何もあったものじゃありません。そう、そう、その金魚ではこんな話がありましたよ」
お玉ヶ池の伝説はむかしから有名であるが、その旧跡は定かでない。地名としては神田|松枝町《まつえちょう》のあたりを総称して、俗にお玉ヶ池と呼んでいたのである。その地名が人の注意をひく上に、そこには大窪詩仏や梁川星巌《やながわせいがん》のような詩人が住んでいた。鍬形※[#「くさかんむり/惠」、第3水準1−91−24]]斎《くわがたけいさい》や山田芳洲のような画家も住んでいた。撃剣家では俗にお玉ヶ池の先生という千葉周作の道場もあった。それらの人達の名によって、お玉ヶ池の名は江戸時代にいよいよ広く知られていた。
これは勿論、それらの人々と肩をならぶべくもないが、俳諧の宗匠としては相当に知られている松下庵其月《しょうかあんきげつ》というのがやはりこの
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