《しでか》すかも知れないので、其蝶もその処置に困ってしまったのです。そのうちにお葉の熱度はだんだん高くなって、使に出た途中、まわり途をして其蝶の家へ押しかけて行くというようになったので、偏人もいよいよ困り果てたのです。なにしろ、こういう女を師匠の家に置くのはよろしくない、ゆくゆくどんなことを惹き起すかも知れないから、何とかして放逐させてしまいたいと思ったが、師匠にむかってどうも明らさまにも云い出しにくいので、その後は句の添削《てんさく》をたのみに行くたびに、二、三句のうちにきっと一句ずつは落葉とか紅葉とかいう題で、おち葉を掃き出してしまえとか、紅葉を切って捨てろとかいうような句を入れて行ったそうです。お葉という女の名から思いついた謎で、なるほど風流人らしい知恵でした。いつもいつも同じような句を作っているので、宗匠も少し変に思っていると、一番最後に持って来たのが、『落葉して月の光のまさりけり』とかいうのだそうです。落葉は例のお葉で、月は其月の一字をよみ込んだものとみえます。お葉を逐《お》い出してしまえば、其月のひかりも増すという意味。それを読んで、其月宗匠も初めてさてはと覚《さと》ったのですが、それを又いつもの焼餅から妙にひがんで考えてしまったんです」
「其蝶とお葉とが訳があると思ったのですか」
「そうです、そうです。これは二人がいつの間にか出来合っていて、女が師匠の家にいては思うように媾曳《あいびき》も出来ない。さりとて、自分から暇を取っては感付かれると思って、なんとかしてこっちから暇を出させ、それから自由に楽しもうという下心《したごころ》だろうと、悪くひがんで考えてしまって、なにしろ、その方のことになると、まるで半気違いのようになる人なんですから、唯むやみに悪い方にばかり考えてしまって、例のごとくお葉をいじめ始めたんです。ことに今度は其蝶の発句《ほっく》という証拠物があるのだから堪まりません。お葉はもう我慢が出来なくなったと見えて、其蝶にあてた長い手紙をかきました。こんなに主人から無体に虐《いじ》められてはとても生きてはいられないから、いっそ主人を殺してしまって、お前さんのところへ駈け込んで行くというようなことを書いて、自分の小指を切った血を染めて、それをそっと其蝶にとどけたので、受け取った方ではおどろきましたが、まさか本気でそんなこともしまい、嚇しに書いてよこしたのだろう位に思って、四、五日はそのままに置いたのが手ぬかりでした。お葉が左の小指の疵はその時に切ったものとみえます。そこで、四、五日経ってから其蝶がお玉ヶ池へ出かけて行くと、それが丁度かの一件の晩で、まだ宵の五ツ(午後八時)頃だったそうです。いつものように門をあけてはいると、四畳半は一面の血だらけで、師匠は机のまえに倒れているので、あっ[#「あっ」に傍点]と思って立ちすくんでしまうと、三畳の女部屋で其蝶さん其蝶さんと呼ぶ声がする。それがお葉だとは知りながら、其蝶はたましいが抜けたように唯ぼんやりしていると、やがて女部屋から、お葉が出て来た。旦那様はわたしが殺してしまったと平気で云うので、其蝶はいよいよおどろきました。まったくお葉は主人を殺すつもりで、其月が俳諧の点をしている油断を見すまして、うしろから不意に剃刀《かみそり》で斬り付けたんだそうです。まだ驚くことは、そうして主人を殺して置いて、血のついた手を台所で綺麗に洗って、爪まで取って、着物も別のものに着かえて、血のはねている着物は丁寧にたたんで葛籠《つづら》の底にしまい込んで、それから髪をかきあげて外へ出る支度をしているところであったそうで、馬鹿というのか、大胆というのか、あんまり度胸がよすぎるので、其蝶も呆気《あっけ》に取られてしまったそうです」
「そうでしょう」と、わたしも思わず溜息をついた。
「いや、それからが又大変」と、老人は顔をしかめた。「あきれてぼんやりしている其蝶をつかまえて、お葉はこれからお前さんの家へ連れて行ってくれと云う。其蝶はもう呆れるというよりは、なんだかむやみに恐ろしくなって、碌々に返事もしないで突っ立っていると、お葉は急に眼の色をかえて、こういうところを見られた以上は唯は置かれない。素直にわたしを連れて行ってくれるか、さもなければここでおまえさんも殺してわたしも死ぬと云って、其月を殺した剃刀をつきつけたので、其蝶も絶体絶命、それでもさすがは男ですから無理に女の刃物を引ったくって、半分は夢中で庭さきへ逃げ出すと、お葉もつづいて飛び降りてくる。そのはずみに自分の帯が解けかかって、それに足をからまれて、お葉はよろけながら池のなかへ滑《すべ》り込んでしまった。其蝶はおそろしいのがいっぱいですから、あとがどうなったか振り向いてもみないで、転がるように表へ逃げ出して、一生懸命に自分の家へかけて帰
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