てある新らしい紙を解くと、疵口にあててある白い綿にはなまなましい血がにじんでいた。半七はその手首をつかんだままで、黙ってかれの顔を睨んだ。其蝶も無言で眼を伏せていた。
「もういけねえぜ」
と、半七はあざ笑った。
「番屋まで来て貰おう」
其蝶はもう覚悟をきめたらしく、すなおに牽《ひ》かれて表へ出た。
四
「これで一廉《いっかど》の手柄をした積りでいたところが、ちっと見当《けんとう》が狂いましたよ」と、半七老人は額をなでながら笑い出した。「まあ、だんだんに話しましょう」
息つぎに茶をのんでいるのが、わたしにはもどかしかった。わたしは追いかけるように訊《き》いた。
「すると、その其蝶が殺したのじゃあないんですか」
「違いました」
「じゃあ元吉という男でしたか」
「やっぱり違いました」と、老人はまた笑っていた。
なんだか焦《じ》らされているようで、わたしは苛々《いらいら》して来た。それと反対に老人はいよいよ落ちついていた。こういう話はひとを焦らしているところが値打ちだといったような顔をしているのが、きょうは少し憎らしいようにも思われて来た。老人は茶碗を下において、しずかに又話し出した。
「其月を殺したのはお葉でしたよ」
「お葉……。その女中がどうして殺したんです」と、わたしは意外らしく訊きかえした。
「まあ、お聴きなさい。そのお葉という女は小娘のときから色《いろ》っ早《ぱや》い奴で、十六の春から千住の煙草屋に奉公しているうちに、そこの甥の元吉と出来合ったことが知れて、その年のくれに暇を出され、あくる年からお玉ヶ池の其月のとこへ奉公に出たのは、前にも云った通りですが、なにしろ主人は独り身、奉公人は色っ早い奴と来ているんですから、すぐに係り合いが付いてしまって、どうも唯の女中ではないらしいと近所でも噂されるようになったんです。そんな女ですから、前の男の元吉に未練もなく、元吉の方でもそのあとを追いまわすこともなく、その方はおたがいに忘れてしまって、なんにも面倒はなかったんですが、ただ面倒なのは今の主人の其月で、これがなかなか悋気《りんき》ぶかい男。尤《もっと》も自分はやがて五十に手のとどく年で、女の方はまだ十八、親子ほども年が違う上に、商売が宗匠ですから若い弟子たちも毎日出這入りする。お葉が浮わついた奴で誰にも彼にも色目をつかうのですから、どうもこれは円《まる》く行かないわけです。といって、お葉は暇を取って立ち去るでもなく、やはり其月の妾のような形で全《まる》二年も腰をすえているうちに、其月の焼餅がだんだん激しくなって来て、時によると随分手あらい折檻《せっかん》をすることもある。ひどい時には女を素っ裸にして、麻縄で手足を引っくくって、女中部屋に半日くらい転がして置いたこともあるそうです。しかし近所の手前もあるので、そんな折檻も至極静かにする。女の方もどんな目に逢っても、決して声をたてるようなことはなく、不思議に歯を食いしばって我慢をしていたそうです。それで主人の方でも逐い出さず、女の方でも逃げ出さず、不断はひどく睦まじく暮らしていたと云います。それは大抵の弟子たちも薄々知っていたのですが、そのなかで其蝶は一番親しく出入りをするだけに、とんだ折檻の場へ来あわせて、留め男の役をつとめたことも度々あるそうです」
「そんなに度々折檻されていたら、お葉のからだに疵あとでも残っていそうなものでしたが……」
死骸を検視のときになぜそこに眼をつけなかったかと、わたしは半七老人の不注意を嘲りたいように思った。
「ごもっともです」と、老人はまじめにうなずいた。「まったく我々の不注意と云われても一言もないわけです。しかし其月の折檻は普通の継子《ままこ》いじめなどのように、打ったり蹴ったり抓《つね》ったりするのではありません。ちょっとお話にも出来ないような、むごたらしい猥褻《わいせつ》な刑罰を加えて苦しめるのですから、死骸のからだを一応あらためたくらいでは判りません。そこはお察しを願います。そこで、其蝶がいつも仲裁役をつとめているうちに、根が浮気者のお葉ですから、そんな折檻にも懲《こ》りないで、其蝶に色目を使うようになって来たんです。其月がむごい折檻をすればするほど、女は意地になってますます気を揉むように仕向ける。こんにちの詞《ことば》でいえば、両方が残酷な興味を持って来たとでも云うのでしょうか。ところが其蝶という男は、まあ一種の偏人といったような人物で、むやみに俳諧と風流に凝り固まっているもんですから、お葉がどんな謎をかけても一向に取合わない。女もしまいに焦《じ》れて来て、鉄釘《かなくぎ》流の附文《つけぶみ》などをするようになる。こうなると、いくら偏人でも打っちゃって置くわけにも行かない。といって正直に師匠に訴えると、又どんな騒ぎを仕出来
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