にか立ち働いていた。四畳半には主人と女中との死骸がならべてあって、お葉の家からはまだ誰も引き取りに来ないとのことであった。雨戸はみな閉め切ってあるので、線香の煙りは家《うち》じゅうにうずまいて流れていた。
 とても割り込んで坐るような席はないので、半七は台所へ廻って、流し元のあがり框《がまち》に腰をかけていると、ひとりの女房が手あぶりの火鉢を持って来てくれた。
「どうもお寒うございます。なにしろ、この通りのせまい家《うち》ですから」と、女房は気の毒そうに云った。
「もうおかまいなさるな。時にここのお弟子さんの其蝶[#「其蝶」は底本では「基蝶」]さんは見えていませんかえ」
「来ています。呼びましょうか」
「呼ばなくってもいい。どこにいるか教えて下さい」
「あれ、あすこに……」
 教えられた方を伸び上がって覗くと、狭い家だけに其の人はつい鼻のさきに見えた。彼は二つの死骸に最も近いところに行儀よく坐って、だまって俯向いていた。膝と膝とが摺れ合うように坐っている人達のあいだに、行燈や燭台が幾つも置いてあるので、其蝶の蒼ざめた横顔は明らかに照らされていた。其月の死骸のそばには文台《ぶんだい》が据えられて、誰が供えたのか知らないが、手向《たむ》けの句らしい短冊が六、七枚も乗せてあった。
 更によく視ると、其蝶はその右の手の小指を紙で巻いているらしかった。半七はふと思い出した。お葉の死骸の左の小指にも小さい膏薬が貼ってあった。検視の時には誰も格別の注意を払わなかったのであるが、其蝶が右の小指を痛めているのを見ると、両方のあいだに何か関係がないとも云えない。半七はもう一度お葉の死骸をあらためて見たいと思ったが、死骸に手をつけるには自分の身分を明かさなければならないので、彼は又すこし躊躇《ちゅうちょ》した。しかしいつまで睨み合っていても際限がないので、半七は更に伸びあがって声をかけた。
「もし、其蝶さん」
 呼ばれても彼は俯向いたままで返事もしなかった。
「其蝶さん。この方《かた》が呼んでいますよ」
 かの女房にも声をかけられて、其蝶は初めて顔をあげた。かれは大勢のなかを掻きわけて台所へ出て来た。
「どなたでございますか。どうぞこちらへ」と、彼はうす暗いところを透かしながら丁寧に云った。
「少しおまえさんにお願い申したいことがあります。わたしは神田の半七という者だが、御用でその死骸をあらために来ました」
「左様でございますか」と、其蝶はやや慌てたらしく答えた。
「なに、ちょいと覗かして貰えばいいんですから」
 一応ことわっておけば仔細はないので、半七はつかつかと奥へ入り込んだ。大勢がじろじろと視ているなかを通って、四畳半の死骸のそばへ立ち寄ったが、其月の方はもうあらためる要はない。半七はお葉の死骸の左手をとって、その小指をよく視ると、小さい膏薬が湿《ぬ》れたままで付いていた。そっと剥がしてみると、なにか刃物で切ったらしい疵《きず》のあとが薄く残っていたが、それはもう五、六日以上を経過したものらしく、疵口も大抵かわいて癒合《ゆごう》していた。この疵はゆうべの事件に関係のないことが十分に判って、半七は失望した。
 かれは更に其蝶の指の疵をあらためたいと思ったが、満座のなかではどうも都合がわるいので、再びかれを眼でまねいて、半七は台所の外に出た。そこの狭い空地には井戸があった。
「どうも宗匠は飛んだことだったが、なにか心当りはありませんかえ」と、半七は車井戸の柱によりかかりながら先ず訊《き》いた。
「どうもわかりません」と、其蝶はひくい溜息をついた。
「ここの家《うち》のことはお前さんが一番よく知っているということだが、宗匠は人に遺恨をうけるようなことでもありますかえ」
「そんな心当りはございません」
「このごろに何処へか金魚を売り込んだことがありますかえ」
「そんなはなしは聞きましたが、その売り先はよく存じません」と、其蝶は云った。「なんでも道具屋の惣八がいかものを持ち込んだとか云って、ひどく立腹していました」
「お葉という女は宗匠の妾ですかえ」
「さあ」と、其蝶は少し云い渋っていた。「なんだか世間ではそんなような噂をいたす者もありますが……」
「おまえさんは千住の元吉という男を識《し》っていますかえ」
「知りません」
「その元吉が宗匠を殺したという噂だが……。おまえさん、まったく知りませんかえ」
「知りません」
「おまえさんは指を痛めているようですね」と、半七は突然に云った。
 其蝶はだまっていた。半七は衝《つ》と寄ってその手首を強く掴《つか》んだ。
「どうして怪我をしたんだか、ちょいと見せてください」
 半七はかれを引き摺るようにして台所の口へ戻ると、其蝶もやはり黙って曳かれて来た。そこにある蝋燭の火を借りて、半七は其蝶の右の小指を幾重にもまい
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