って、入口の戸を堅く締め切って、息を殺して夜の明けるのを待っていたそうです。右の小指の疵は、お葉の手から剃刀をうばい取るときに自分で突き切ったので、その当座は夢中でしたが、あとでだんだん痛んで来たので、初めてそれと気がついたということです」
「其蝶はなぜ早くそれを訴え出なかったんでしょうね」
「わたくしも一旦はそれを疑いましたが、其蝶の申し立ての嘘でないことは、お葉の血染めの手紙をみて判りました。それまでに来た附文はみんな裂いてしまったんですが、最後の手紙だけはそのまま机のひきだしに入れてあったので、其蝶のためには大変に都合のいい証拠品となりました。其蝶がなぜそれを訴えなかったかというと、それを表向きにすれば内輪のことを何もかもさらけ出さなければならない。それでは第一に師匠の恥、第二には自分も何かのまきぞえを受けるかも知れないと、それを気づかって黙っていたのです。師匠を殺した相手がわからなければ格別、本人のお葉はもう自滅しているのだから、素知らぬ顔をして有耶無耶《うやむや》に葬ってしまう積りであったらしいのです。知っていながら黙っていたというのは悪いことですが、事情を察してみれば可哀そうなところもあるので、其蝶はまあ叱るだけで免《ゆる》してやりました」
「そうすると、金魚の方はなんにも係り合いはないんですね」
「それは確かに判りません」と、老人は云った。「なにを云うにも肝腎の其月が死んでしまったので、その売り先が知れません。だんだん探ってみると、どうも浅草の札差《ふださし》の家らしいのですが、こうなると先方でも面倒のかかるのを恐れて、一切《いっさい》知らないと云い張っていますから、どうにも調べようがありません。元吉や惣八が、人殺しにかかり合いのないことだけは明白ですが、金魚の方は、ほん物かいか[#「いか」に傍点]物か、とうとう判らないことになりました。勿論、こんな変りものは買う方も悪いということになっていましたから、たといいか[#「いか」に傍点]物を売り込んだことが知れても、重い罪にはなりません。冬の金魚も変りものですが、この宗匠も女中も人間のなかでは変りものの方でしょうね。こんにちのお医者にみせたら、みんな何とかいう病名がつくのかも知れませんよ」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年5月20日初版1刷発行
1997(平成9)年5月15日11刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫
校正:ごまごま
2000年12月21日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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