す。倉田屋のお紋さんと藤さんが始終ここの二階へ来ることもみんな知っています。御存じだかどうだか知りませんが、甲州屋のなあ[#「なあ」に傍点]ちゃんが昨日《きのう》から家出をして今にゆくえが知れないので、家《うち》では大騒ぎをしているんです。藤さんが来る筈ですが、すこし加減が悪くって、けさから寝込んでいるので、わたしがその使をたのまれて来ました。なあ[#「なあ」に傍点]ちゃんは昨日から一度もここへ来ませんかしら」
「いいえ、一度もお見えになりませんよ」
 詞《ことば》づかいは余ほど丁寧になったが、彼女は見識らない使の男にたいしてやはり油断しないらしかった。
「もし、おかみさん、あの壁にかかっているのはなんですえ」と、半七は伸び上がってだしぬけに奥をゆびさした。
 残暑の強い朝であるから、そこらは明け放してあった。格子のなかの上がり口には新らしい葭戸《よしど》が半分しめてあったが、台所と奥とのあいだの障子は取り払われて、六畳くらいの茶の間はひと目に見通された。助炭《じょたん》をかけた長火鉢は隅の方に押しやられて、その傍には古びた箪笥が置いてあった。それにつづいた鼠壁には、どこからかの貰いものらしい二、三本の団扇《うちわ》が袋に入れたままで逆《さか》さに懸かっていた。
「あの団扇ですかえ」と、お豊は奥を見かえった。
「いいえ、あの団扇の隣りに懸かっているのは……。あれはなんですえ。お草紙《そうし》のようですね」
「うちの子供のお草紙です」
「ちょいと持って来て、見せてくれませんか」
「お草紙をどうするんですよ」
「どうしてもいい、用があるから見せろと云うんだ」と、半七は少し声をあらくした。「強情を張っていると、おれが行って取ってくる」
 草履をぬいで台所から上がろうとすると、お豊はさえぎるように起ちあがった。
「おまえさん。人の家《うち》へむやみにはいって来て、どうするんですよ」
 半七はつかつかと茶の間へ踏み込んで、団扇のとなりに懸けてある一冊の清書草紙を手に取った。
「今聞いていれば、うちの子供のお草紙だと云ったな。嘘つき阿魔《あま》め。ここの家にどんな子がいる。猫の子一匹もいねえじゃあねえか。六十幾つになるつんぼの婆さんとおめえの二人っきりだということは近所で訊《き》いて知っているぞ。第一この草紙の表紙になんと書いてある。庚戌《かのえいぬ》、正月、なお……このなお[
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