#「なお」に傍点]というのはだれの名だ。世間におなじ名はあっても、ここでこの草紙を見つけた以上は云い抜けはさせねえ。甲州屋のむすめの手習い草紙がどうしてここに懸けてあるんだ。仔細をいえ。わけを云え」
 お豊は唖《おし》のように突っ立っていると、半七は片手に草紙を持ちながら、かた手で彼女の腕をつかんだ。
「婆はどこへ行った」
「近所へ買物に出ました」と、お豊は口のなかで答えた。
「そんなら二階へ案内しろ」
 彼女を引き摺るようにして、せまい掛け階子《ばしご》をのぼってゆくと、二階の四畳半には誰もいなかった。半七は念のために押入れをあけて見た。古い葛籠《つづら》をゆすってみた。
「まあ、坐れ」と、かれは再びお豊の腕をつかんで、四畳半のまんなかに引き据えた。「これ、正直に云え。さっきは甲州屋の使と云ったが、御用で調べるのだ。甲州屋のお直はきのうここへ来たか」
 草紙を眼のさきに突きつけられて、お豊はもう包み切れなくなった。かれは恐れ入って白状した。甲州屋のお直はここの家へ来たのである。きのうの午《ひる》頃にお豊が得意場から帰ってくると、途中で倉田屋の娘と甲州屋のむすめが二人連れで来るのに逢った。お直はしきりに泣いているのを、お力がなだめているらしかった。どちらも自分の得意場の娘であるので、お豊は見すごし兼ねて立ち寄って、もしや喧嘩でもしたのではないかと訊《き》くと、お直が師匠さんに叱られたのであると判った。それもほかのことで叱られたとあれば、お豊もいい加減になだめて別れるのであったが、お力から渡されたお紋の手紙を稽古場で取り落して、それを雷師匠に見つけられたのであると聞いて、お豊もすこし驚いた。
 甲州屋の息子と倉田屋の姉娘とのあいだには、半七が睨んだ通りの関係が結びつけられていた。親たち同士は単に口さきの軽い話ぐらいに過ぎなかったが、若いもの同士は更に深入りをして、おなじ手習い師匠にかよう双方の妹がいつも文《ふみ》づかいの役目を勤めさせられていた。女髪結のお豊は一種の慾心から時々自分の二階をお紋と藤太郎とに貸していた。こういうわけで、お豊もこの事件に係り合いがあるだけに、秘密の手紙を師匠に見つけられたと聞いて顔色をくもらせた。相手は名代《なだい》のかみなりであるから、おそらくこのままでは済ませまい。お直が怪しい手紙を隠し持っていたということを、甲州屋の親たちに一応通知す
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