、隣国の用人の若い伜が、何者かに闇討ちにされたという噂がここまで聞えたので、澹山は初めて重荷をおろしたような心持になって、そのあくる日に出発した。
江戸へ帰る途中で、彼は再び房川の渡しを越えるときに、おげんがここで自分の手に救われたのが仕合わせであったか不仕合わせであったかということを考えた。彼は北にむかって、ひそかに千倉屋の娘の冥福を祈った。
無事に使命を果たして帰った彼は、組頭《くみがしら》にも褒められ、上《かみ》のおぼえもめでたかった、しかし彼は決して切支丹のことを口にしなかった。彼は再び絵筆を執らなかった。
千倉屋からはその後何のたよりも無かったが、それから五年ほど経った後に、奥州のある城下町で切支丹宗門の者十一人が磔刑《はりつけ》にかかったという噂を聴いた時に、彼はすぐに伝兵衛|父子《おやこ》の名を思い出した。そうして、おげんはやっぱり仕合わせであったかとも思った。弁天堂の奥に秘められていたマリアの絵像も、かれが模写した同じ絵像も、どうなったか判らない。おそらく誰かの手で灰にされてしまったであろう。
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
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