名乗った若い旅絵師は、伝兵衛の一行に加わることになった。道連れといっても、これは自分の娘の命を救ってくれた恩人であるから、伝兵衛主従も決して彼を疎略には扱わなかった。
 その晩は小山の宿《しゅく》に泊まったが、旅籠《はたご》賃その他はすべて伝兵衛が賄《まかな》った。これから幾日もつづく道中に、それではまことに困ると澹山はしきりにことわったが、伝兵衛はどうしても肯《き》かなかった。あくる晩は宇都宮に着いたが、その翌日も午《ひる》すぎまでここに逗留して、伝兵衛は澹山を案内して二荒《ふたら》神社などに参詣した。その後の道中も、毎晩の宿はかなりの上旅籠で、澹山はなんの不自由もなしに奥州路にはいった。

     二

 この年は正月から照りつづいて江戸近国は旱魃《かんばつ》に苦しんだと伝えられているが、白河から北にはその影響もなくて、五月の末には梅雨《つゆ》らしいしめり勝ちの暗い天気が毎日つづいた。この雨にふり籠められたばかりでなく、旅絵師の澹山は千倉屋の奥の離れ座敷に閉じ籠って、当分は再び草鞋《わらじ》を穿《は》きそうもなかった。
 その頃の旅絵師といえば、ゆく先々で自分の絵を売って、それを路用としてそれからそれへと渡ってゆくのが習いであった。千倉屋伝兵衛もその事情を知っているので、ともかくも自分の家に当分逗留して、相当の路用を作り溜めた上で出発することにしたらよかろうと途中でも切《しき》りにすすめたので、澹山もその親切をよろこんで、云わるるままに千倉屋の厄介になることにした。千倉屋は旅絵師が想像していたよりも更に大きい店構えで、十人あまりの奉公人が忙がしそうに働いていた。伝兵衛の女房は七、八年前に世を去ったということで、家族は主人のほかに惣領息子の伝四郎と妹娘のおげん二人ぎりであった。伝四郎は今年|二十歳《はたち》の独身者《ひとりもの》で、これも父に似て骨格のたくましい寡言《むくち》の男であった。おげんは二つちがいの今年十八で、色のすぐれて白い、ここらでは先ず眼につくような美しい眼鼻立ちを具《そな》えながら、どことなく薄のろいようにも見えるおとなしい娘であることを、毎日一緒に連れ立って来た澹山は知っていた。
 妹の命を救ってくれたということを聞いて、兄の伝四郎も若い旅絵師をよろこんで迎えた。彼は父と同じように、いつまでもここに逗留していてくれと無愛想な口で澹山にすすめた。こうして一家の人々から款待《かんたい》されて、澹山の方でもひどく喜んで、自分の居間として貸して貰った離れ座敷を画室として、ここでゆっくりと絵絹や画仙紙をひろげることになると、伝兵衛も自分の家の屏風や掛物は勿論、心安い人々をそれからそれへと紹介して、澹山のために毎日の仕事をあたえてくれた。それらの仕事に忙がしく追われながら、六七八の三月《みつき》はいつか過ぎて、ここらでは雪が降るという九月の中頃になった。
 この三月のあいだには別に記《しる》すべき事もなかった。ただ彼《か》の澹山が諸方から少なからず画料を貰って、その胴巻がよほど膨《ふく》れて来たのと、娘のおげんと特に親しみを増したのと、この二ヵ条のほかには何事もなかった。しかし、娘の問題は若い旅絵師に取ってすこぶる迷惑の筋であるらしかった。娘は自分の恩人という以上に澹山を鄭重《ていちょう》に取り扱った。かれが朝夕の世話は奉公人どもの手を借らずに、娘が何もかも引き受けていた。その親切があまりに度を過ぎるのを澹山は内心あやぶみ恐れていながらも、むやみにここを立退《たちの》くことの出来ない事情もあるらしく、迷惑を忍んで千倉屋の奥にうずくまっていた。
「先生。お寂しゅうござりましょう」
 柴栗の焼いたのを盆に盛って、おげんは行燈《あんどう》の前にその白い顔を見せた。奥州の夜寒に※[#「虫+車」、第3水準1−91−55]《こおろぎ》もこの頃は鳴き絶えて、庭の銀杏《いちょう》の葉が闇のなかにさらさらと散る音がときどきに時雨《しぐれ》かとも疑われた。娘は棚から茶道具をとりおろして来て、すぐに茶をいれる支度にかかった。
「いや、もう毎晩のこと、決してお構いくださるな」と、澹山は書きかけていた日記の筆を措《お》いて見かえった。「お父さんはどうなさった。きょうは一日お目にかからなかったが……」
「父は午《ひる》から出ましてまだ戻りません。今夜は遅くなるでございましょう」
 伝兵衛は囲碁が道楽で、ときどき夜ふかしをして帰ることは澹山も知っているので、別にそれを不思議とも思わなかった。
「兄さんは……」
「兄も父と一緒に出ました」
 おげんは茶をすすめて、更に柴栗を剥《む》いてくれた。その白い指先をながめながら澹山はしずかに訊《き》いた。
「御用人の御子息はその後御催促には見えませんか」
「はい」
「どうも思うように出来ないので甚だ延引、
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