懸命の仕事です。いや、その隠密についてこんな話があります。これは今云った悲劇喜劇のなかでは余ほど毛色の変った方ですから、自分のことじゃありませんけれど、受け売りの昔話を一席弁じましょう。このお話は、その隠密の役目を間宮鉄次郎という人がうけたまわった時のことで、間宮さんはこの時二十五の厄年《やくどし》だったと云います。それから最初におことわり申しておくのは、このお話の舞台は主《おも》に奥州筋ですから、出る役者はみんな奥州弁でなければならないんですが、とんだ白石噺《しらいしばなし》の揚屋のお茶番で、だだあ[#「だだあ」に傍点]やがあま[#「があま」に傍点]を下手にやり損じると却《かえ》ってお笑いぐさですから、やっぱり江戸弁でまっすぐにお話し申します」

 文政四年五月十日の朝、五ツ(午前八時)を少し過ぎた頃に、奥州街道の栗橋の関所を無事に通り過ぎた七、八人の旅人がぞろぞろ繋《つな》がって、房川《ぼうかわ》の渡《わたし》(利根川)にさしかかった。そのなかには一人の若い旅絵師がまじっていた。渡し船は幾|艘《そう》もあるので、このひと群れは皆おなじ船に乗り込んで、河原と水とをあわせて三百間という大河のまん中まで漕ぎ出したときに、向うから渡ってくる船とすれ違った。広い河ではあるが、船の行き馴れている路はいつも決まっているので、両方の船は小舷《こべり》が摺れ合うほどに近寄って通る。船頭は馴れているので平気で棹《さお》を突っ張ると、今日はふだんより流れのぐあいが悪かったとみえて、急に傾いてゆれた船はたがいにすれ違う調子をはずして、向うから来た船の舳先《へさき》がこっちの船の横舷《よこべり》へどんと突きあたった。
 つき当てられた船はひどく揺れて傾いたので、乗っていた二、三人はあわてて起《た》ちかかった。船頭があぶないと注意する間《ひま》もなしに、一人の若い娘はからだの中心を失って、河のなかへうしろ向きに転げ落ちてしまった。どの人も顔色を変えてあっ[#「あっ」に傍点]と叫ぶ間に、船頭は棹をすてて飛び込んだ。かの旅絵師もつづいて飛び込んだ。見る見る川しもへ押し流されて行った娘は、七、八間のところで旅絵師の手に掴《つか》まえられると、水練の巧みらしい彼は、娘を殆ど水のなかから差し上げるようにして、もとの船へ無事に泳いで帰ったので、大勢はおもわず喜びの声をあげた。取り分けその娘の親らしい老人と供の男とは手を合わせて彼を拝んだ。船頭は乗合一同にひどくあやまって、ともかく向う岸まで船を送り着けた。
 娘はさのみに弱ってもいなかった。そのころは五月であるから凍《こご》えることもなかった。渡し小屋で濡れた単衣《ひとえ》を着かえて、彼女は父と供の男とに介抱されながらしばらく休んでいるうちに、旅絵師は娘の無事を見とどけて、自分も着物を着かえて、そのまま行こうとすると、大切な娘の命を助けられたそのお礼がまだ十分に云い足りないというので、老人はしきりに彼を抑留《ひきと》めた。娘だけを駕籠に乗せて、自分たちは近い宿《しゅく》まで一緒にあるいて行って、老人はある立場《たてば》茶屋の奥座敷へ無理にかの旅絵師を誘い込んで、ここであらためて礼を云った上で酒や肴《さかな》を彼にすすめた。
 老人は奥州の或る城下の町に穀屋《こくや》の店を持っている千倉屋伝兵衛という者であった。年来の宿願《しゅくがん》であった金毘羅《こんぴら》まいりを思い立って、娘のおげんと下男の儀平をつれて、奥州から四国の琴平《ことひら》まで遠い旅を続けて、その帰りには江戸見物もして、今や帰国の途中であると話した。この時代に足弱《あしよわ》と供の者とを連れて奥州から四国路までも旅行をするというのは、よっぽど裕福の身分でなければならないことは判り切っていた。伝兵衛はもう六十と云っていたが、身の丈《たけ》も高く、頬の肉も豊かで、見るから健《すこや》かな、いかにも温和らしい福相をそなえた老人であった。
 旅絵師も自分のゆく先を話した。かの芭蕉の「奥の細道」をたどって高館《たかだち》の旧跡や松島塩釜の名所を見物しながら奥州諸国を遍歴したい宿願で、三日前のゆうぐれに江戸を発足《ほっそく》して、路草を食いながらここまで来たのであると云った。
「それはよい道連れが出来ました」と、伝兵衛は喜ばしそうに云った。「唯今申す通り、わたくし共も長の道中をすませて、これから奥州の故郷へ帰るものでございます。足弱連れで御迷惑かも知れませんが、これも何かの御縁で、途中まで御一緒においでなされませんか」
「いや、御迷惑とはこちらで申すこと、実はわたくしも奥州道中は初旅で、一向に案内が知れないので、心ぼそく思っていたところでございますから、御一緒にお連れくだされば大仕合わせでございます」
 相談はすぐに決まって、山崎|澹山《たんざん》とみずから
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