なんとも申し訳がありません」と、澹山は小鬢《こびん》をかいた。「頼まれたお方が余人でないので、せいぜい腕を揮《ふる》おうと思っているのですが、それがため却って筆先が固くなった気味で、まことにどうも困っています。千之丞殿も定めて御立腹、ひいては御推挙くだすったお父さんにも御迷惑がかかろうと心配していますが……」
「なんの、そんなことはございません」と、おげんは相手の顔を見つめながら云った。「あんな人の頼んだ絵など、いっそいつまでも出来ない方がようござります」
この藩の用人荒木|頼母《たのも》の伜千之丞は、伝兵衛の推挙で先ごろ千倉屋へたずねて来て、澹山に西王母《せいおうぼ》の大幅を頼んで行った。その揮毫《きごう》がなかなかはかどらないので、五、六日前にも千之丞はその催促に来た。しかしその催促以外に、なにかの意味でおげんが千之丞を嫌っていることを、澹山もうすうす覚《さと》っていた。
「くどくも云う通り、頼まれたお方が余人でないので、わたくしも等閑《なおざり》には存じません」と、澹山は飽くまでもまじめに云い出した。「しかし、どうも出来ないものは仕方がないので、まあ、まあ、幾たびでも描き直して、これなればと自分でも得心《とくしん》のまいるまで根《こん》よくやってみるよりほかはありません。お前様からもよくお父さんに取りなして置いてください。頼みます」
おげんは微笑《ほほえ》みながらうなずいた。片明かりの行燈は男と女の影を障子に映して、枕の草子の作者でなくても、憎きものに数えたいような影法師が黒くゆらいでいた。庭で銀杏《いちょう》の散るおとが又きこえた。
「千之丞殿の伯父御は先殿《せんとの》様の追腹《おいばら》を切られたとかいいますが、それはほんとうのことですか」と、澹山は思い出したように訊いた。
「確かなことは存じませんが、それは嘘だとか聞きました」と、おげんは躊躇《ちゅうちょ》せずに答えた。「先殿様の御葬式《おとむらい》がすむと間もなく、源太夫様もつづいてお亡《な》くなりなすったので、世間では追腹などと申しますが、ほんとうは千之丞様の親御《おやご》たちが寄りあつまって詰腹《つめばら》を切らせたのだとかいうことでござります」
「ほう。詰腹……」と、澹山は顔をしかめた。「武家では折りおりそんな噂を聞きますが、無得心のものを大勢がとりこめて切腹させる。考えてもおそろしい。しかし、源太夫殿とても御用人格の立派な御身分であるから、いわれ無しに詰腹など切らされる筈もあるまい。何かそこには深い仔細があることと思われるが……」
「大方そうでござりましょう」
「若殿の忠作様も実は御病死でない。それにも何か仔細があるように云う者もありますが、それも嘘ですか」と、澹山はまた訊いた。
「それもよくは存じません」
彼女もまんざら愚鈍でないので、いかに打ち解けた男のまえでも、領主の家の噂を軽々しく口外することはさすがに慎しんでいるらしく見えたので、澹山も根問《ねど》いしないでその儘に口を噤《つぐ》んだ。用人の死、若殿の死、この二つの問題はそれぎりで消えてしまって、話はやがて来る冬の噂、それもおげんの重い口から途切れ途切れに語られるだけで、あんまり澹山の興味を惹かないばかりか、今夜も五ツ(午後八時)を過ぎたのに、おげんはただ黙って坐り込んだままで容易に動きそうにも見えないので、澹山は例の迷惑を感じて来た。
「おげんさん。もう五ツ半頃でしょう。そろそろおやすみになったらどうです」
「はい」と、云ったばかりで、おげんはやはり素直に起ち上がりそうもなかった。
「早く行ってお寝《やす》みなさい」と、澹山は優しい声ながらも少し改まって云った。
「はい」
彼女はやはり強情に坐り込んでいた。そうして、重い口をいよいよ渋らせながら云い出した。
「あの、わたくしのような不器用なものにも絵が習えましょうか」
「誰でも習えないということはありません」と、澹山は、ほほえみながら答えた。
「では、これからあなたの弟子にして、教えていただくことは出来ますまいか」
澹山は返事に少し躊躇した。もとより良家の娘が道楽半分に習うというのであるから、その器用不器用などは大した問題でもなかったが、澹山の別に恐れるところは、彼女が絵筆の稽古をかこつけに、今後はいっそう親しく接近して来ることであった。しかし今の場合、それをことわるに適当の口実をも見いだし得ないので、結局それを承知すると、おげんは初めて座をたった。
「では、きっとお弟子にしていただきます」
そこらの茶道具を片付けて、かれは自分で澹山の寝床をのべて、丁寧に挨拶して出て行った。そのうしろ姿を見送って澹山は深い溜息をついた。
旅絵師山崎澹山の正体が吹上御庭番の間宮鉄次郎であることは云うまでもあるまい。この土地の領主は三年あまりの長煩《な
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