がわずら》いで去年の秋に世を去った。その臨終のふた月ほど前に、嫡子《ちゃくし》の忠作が急病で死んで、次男の忠之助を世嗣ぎに直したいということを幕府に届けて出た。嫡子が死んで、次男がその跡に直るのは別にめずらしいことでもない。むしろそれは正当の順序であるので、幕府でも無論それを聞き届けたが、それから間もなく当主が死んだ。その葬式が済むと、つづいて用人の一人貝沢源太夫が死んだ。それが禁制の殉死であるともいい、または毒害ともいい、詰腹ともいう噂があった。
こうなると、嫡子の急病というのも一種の疑いが起らないでもない。当主の余命がもう長くないのを見込んで、何者かが嫡子を毒害などして次男を相続人に押し立てようと企てた。その反対者たる用人の一人は何かの口実のもとに押し片付けられてしまった。大名の家の代換りには、こういうたぐいのいわゆる御家騒動がたびたび繰り返されるので、幕府でも一応内偵をしなければならなかった。
そうでなくても、大名の代換りには必ず隠密を放つのが其の時代の例であるのに、仮りにもこういう疑いが付きまとっている以上、今度の隠密は比較的重大な役目になって来た。それをうけたまわった鉄次郎は絵筆の嗜《たしな》みのあるのを幸いに、旅絵師に化けて奥州へ下ってくる途中で、偶然に房川《ぼうかわ》の渡しでおげんを救ったのが縁となって、千倉屋伝兵衛と親しくなった。しかも其の家は鉄次郎の澹山がこれから踏み込もうとする城下の町にあるというので、彼はこの上もない好都合をよろこんで、抑留《ひきと》められるままに千倉屋の客となった。そうして三月あまりを送るうちに、彼は伝兵衛の推挙で城の用人荒木頼母の伜千之丞から掛物の揮毫《きごう》を頼まれた。
城内の者に知己を得るという事は、澹山に取っては最も望むところであったので、彼はいよいよ喜んでそれを引き受けたが、それがどうも思うように描きあがらないので、彼の心はひどく苦しめられた。あの絵師はまずいと一旦見限られてしまうと、城内の他の人々にも接近する機会を失うことになるので、彼はこの絵を腕一ぱいにかきたいと思った。もう一つには万一自分が隠密であるということが発覚した暁に、江戸の侍はこんなまずい絵を描き残したと後日《ごにち》の笑いぐさにされるのが残念である。十分に念を入れて描きたいと、あせれば躁《あせ》るほど其の筆は妙に固くなって、彼として相当の自信のあるような作物がどうしても出来あがらなかった。おれはほんとうの絵師ではない。おれは侍で、単に一時の方便のために絵を描くのであるから、所詮は素人の眼を誤魔化し得るだけに、ただ小器用に手綺麗に塗り付けて置けばよいのである。田舎侍に何がわかるものかと時々こう思い直すこともありながら、彼はやはり自分の気が済まなかった。現在の彼は江戸の侍、間宮鉄次郎の名を忘れて、山崎澹山という一個の芸術家となって苦しみ悩んでいるのであった。
その最中に千倉屋の娘がうるさく付きまとって来て、いよいよ自分の弟子にしてくれという。それを邪慳《じゃけん》に突き放すすべもない彼は、いっそ此の家を逃げ出して、どこか静かなところに隠れて思うような絵をかいてみたいとも思ったが、その小さい目的のために他の大きい目的を犠牲にすることの出来ないのは判り切っているので、澹山はただ苦しい溜息をつくのほかはなかった。
寺の鐘が四ツ(午後十時)を撞《つ》き出したのに気がついて、彼は寝床へ入ろうとした。用心ぶかい彼は寝る前にかならず庭先を一応見まわるのを例としているので、今夜も縁先の雨戸をそっとあけて、庭下駄を突っかけて、大きい銀杏の下に降り立つと、星の光りすらも見えない暗い夜で、早寝の町はもう寝静まっていた。広い庭を囲っている槿《むくげ》の生垣《いけがき》を越して、向うには畑を隔てた小家が二、三軒つづいている筈であるが、その灯も今夜は見えなかった。まして、その又うしろに横たわっている小高い丘や森の姿などは、すべて大きい闇の奥に埋められていた。
落葉の音にも耳をすまして、澹山はやがて内へ引っ返そうとする時、向うの田圃路《たんぼみち》に狐火のような提灯の影が一つぼんやりと浮き出した。丘の上に祠《まつ》られてある弁天堂に夜まいりをした人であろうと思いながらも、彼はしばらく其の灯を見つめていると、灯はだんだんに近づいて生垣の外を通り過ぎた。灯に照らされた人のすがたは主人の伝兵衛と伜の伝四郎とであることを、澹山は垣根越しにはっきり認めた。
「碁を打ちに行ったのではない。親子連れで夜詣りかな」と、かれは小首をかしげた。
座敷へ帰って、行燈《あんどう》をふき消して、澹山は自分の寝床にもぐり込むと、やがて母屋《おもや》の方からこちらへ忍んで来るような足音がきこえた。
三
澹山は蒲団の下に隠してある匕首《あいくち
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