頃まで雪が降ります」と、澹山は手あぶり火鉢を彼女のまえに押しやりながら訊《き》いた。
「来月のはじめには歇《や》みましょう」と、おげんは茶をいれながら答えた。「もう十日か半月の御辛抱でござります。ここらで雪のやむ頃は、お江戸は花盛りでござりましょう」
 澹山は江戸の春が恋しくなった。去年の五月に江戸を発《た》って、やがて小一年になる。雪のやむのを待って早々に出発しても、上野や向島の今年の花はもう見られまいと思った。
 その心のうちを読むように、おげんはまた云った。
「雪がやむと、すぐにお発ちになるのでござりますか」
 うっかりした返事は出来ないので、澹山はあいまいに答えた。
「いや、まだ確かに決めていません。もう少しこちらに御厄介になりますか、それとも松島、塩釜の方へでも見物に行きますか」
「ほんとうでござりますか」と、おげんはまだ疑うように相手の顔色をうかがっていた。「松島塩釜はわたくしも一度見物に参ったことがござります。もし先生が御見物ならば、わたくしに御案内させてくださりませ」
 どこまでも附き纒おうとする彼女の執念におどろきながら、澹山はなにげなく答えた。
「自然そういうことになりましたら、ぜひ御案内をねがいます。わたくしは御承知の通り、奥州の方角は一向不案内ですから」
 庭の雨戸を軽くことこと[#「ことこと」に傍点]と叩くような物音がきこえた。雪の音らしくないので、二人は話をやめて思わず顔を見あわせると、その物音は又きこえた。おげんは初めて起ち上がって縁側へ出ると、澹山は片手をのばして行燈をひき寄せた。
「どなた、誰です」と、おげんは障子をあけながら声をかけた。
 外ではなんの返事もなかったが、雨戸をたたくような音はつづけて聞えた。おげんも根負けがして、雨戸を細目にあけながら、雪明かりの庭先をのぞいたかと思うと、忽ちあっ[#「あっ」に傍点]と叫んで座敷へ転げ込んで来て、澹山の膝のうえに半分倒れかかりながら、彼を掩うように両手をひろげた。澹山はすぐに手近の行燈を吹き消した。それとこれと殆ど同時に、ひと筋の手槍が暗いなかを縫ってきて、おげんの胸を突き透した。つづいて颯《さっ》という太刀風が彼女の小鬢をななめに掠《かす》めて通った。
 澹山はもうその時、おげんの背後《うしろ》にはいなかった。彼は早くも飛びさがって蝙蝠《こうもり》のように横手の壁に身をよせて息をの
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