でしょうね」と、お定は僅かにうなずいた。
「まあ、待っていねえ。今にかたきを取ってやるから」
「どうぞおたのみ申します」
お定は襦袢《じゅばん》の袖口で眼をふいていた。それをあとに見て半七は奥へ通ると、主人夫婦はいよいよ顔を陰《くも》らせていた。お浪の駈け落ちや張子の虎の詮議がひと通り済んだあとで、半七は主人を慰めるように云った。
「なに、もう御心配にゃあ及びません。もう見当は大抵ついています。あのお定という新造は通いですか。家《うち》はどこですえ」
「すぐ二、三軒さきの酒屋の裏で、洗濯|婆《ばあ》さんの二階を借りています」と、主人夫婦は答えた。
「じゃあ、わたしはこれからその留守宅を調べに行きますから、本人にも知らさないようにして置いてください」
「お定になにか御不審があるんですか」と、女房はびっくりしたように訊《き》いた。
「いや、まだ確かに判りません。まあ、ちょいと行って見ましょう」
半七はしずかに起《た》って出て行ったが、それから小半|※[#「日+向」、第3水準1−85−25]《とき》も経たないうちに、手拭に巻いた片足の草履を持って来た。かれは与七を呼んで、この間あずけて置いた草履の片足を取り寄せた。それとこれとを主人の眼の前で列《なら》べてみると、一足の草履がたしかに揃った。
「その片足がお定の家《うち》にあったんですか」と、与七は眼をみはった。
「わけはあとで話す」と、半七は笑った。「それよりも先にお定に用がある。そこらにいるなら、早く呼んでくれ」
「今しがたお客があったので、二階へ行っている筈ですが……」
なんだか煙《けむ》にまかれたような顔をして、与七はあたふた[#「あたふた」に傍点]と出て行った。迂闊《うかつ》に口を出すわけにも行かないので、主人夫婦は唖《おし》のように黙っていた。お駒が形見の草履を前にして深い沈黙がしばらく続いた。
「親分。お定は見えませんよ。二階じゅうをさがしても何処にもいないんです」
与七が声をひそめて訴えて来ると、半七は持っていた煙管を思わず投げ出した。
「畜生、素捷《すばや》い奴だ。よもや家へ帰りゃあしめえが、まあ念のために行ってみよう」
かれは急いで伊勢屋を出て、ふたたび酒屋の裏をたずねると、お定はさっきから一度も姿を見せないとのことであった。半七は更にあるじの婆さんにむかって、このごろお定がどこへか出たことがあるか、また彼女《かれ》をたずねて来た者があるかと詮議すると、お定は毎月一度ずつ千住の方へ寺参りにゆくほかには滅多に何処へも出かけたことはないらしい、訪ねて来る人も殆ど無い。たった一度、今から一と月ほど前にお店者《たなもの》らしい四十格好の男がたずねて来て、お定を門口《かどぐち》へ呼び出して何かしばらく立ち話をした上で、ふたりが一緒に連れ立って出て行ったことがあると、婆さんは正直に話した。半七はその男の人相や風俗をくわしく訊いて別れた。
宿《しゅく》の入口の小料理屋へはいって、半七は夕飯を食った。それから源助町の方角へ足を向けるころには、雨ももう歇《や》んでいた。尻を端折《はしょ》って番傘をさげて、半七は暗い往来をたどってゆくと、神明前の大通りで足駄の鼻緒をふみ切った。舌打ちをしながら見まわすと、五、六軒さきに大岩《おおいわ》という駕籠屋の行燈《あんどう》がぼんやりと点《とも》っていた。ふだんから顔馴染であるので、かれは片足を曳き摺りながらはいった。
「やあ。親分。いい塩梅《あんばい》にあがりそうですね」と、店口で草履の緒を結んでいる若い男が挨拶した。「どうしなすった。鼻緒が切れましたかえ」
「とんだ孫右衛門よ」と、半七は笑った。「すべって転ばねえのがお仕合わせだ。なんでもいいから、切れっ端《ぱし》か麻をすこしくんねえか」
「あい、ようがす」
店の炉のまわりに胡坐《あぐら》をかいていた若い者が奥へはいって麻緒を持って来ると、半七は框《かまち》に腰をおろした。
「親分、わたしが綰《す》げてあげましょう」
「手をよごして気の毒だな」
若い者に鼻緒をすげさせながら不図《ふと》みると、ひとりの男が傘を半分すぼめて、顔をかくすように門口《かどぐち》に立っていた。半七は傍にいる若い者に小声で訊《き》いた。
「ありゃあ何処の人だ。馴染かえ」
「源助町の下総屋の番頭さんです」
半七の眼は光った。主人預けになっている筈の彼が夜になって勝手に出あるく。それだけでも詮議ものであると思ったが、半七はわざと見逃がして置いた。
「そうして、これから何処へ行くんだ。宿《しゅく》かえ」と、かれは再び小声で訊《き》いた。
「なんだか大木戸まで送るんだそうです」
そう云っているうちに、一方の若い者の支度は出来て、門《かど》に忍んでいる番頭は駕籠に乗って出た。雨あがりの薄い月がその駕籠の上をぼんやりと照らしていた。
「おい、おれにも一挺頼む。あのあとをそっと尾《つ》けてくれ」
相手が相手であるから若い者はすぐに支度して、半七をのせた駕籠は小半町ばかりの距離を取りながら、人魂《ひとだま》のように迷ってゆく駕籠の灯を追って行った。前の駕籠が大木戸でおろされると、半七も下りた。駕籠屋を帰して、かれはぬかるみを足早に歩き出した。鼻緒をすげてしまうのを待っている間がなかったので、かれは大岩の貸し下駄を穿《は》いていた。
今夜はもう五ツ(午後八時)を過ぎているので、海辺の茶店は閉《し》まっていた。北から数えて五つ目の茶店の前で、下総屋の番頭吉助は立ちどまってそっと左右を見まわした。かれはいつの間にか頬かむりをしていた。
四
「ふだんと違って今の身分だから、店をぬけ出すのは容易じゃない。これでも神明前から駕籠で来たのだ」
「でもどんなに待ったか知れやしない。あたしはきっと欺されたのかと思っていたのよ。だましたら料簡《りょうけん》があると覚悟していたんだけれど……」
それが女の声であるので、半七は肚《はら》のなかでほほえんだ。かれは葭簀《よしず》のかげに忍んで、隣りの茶店の奥の密談を一々ぬすみ聴いていた。
「それで、これからどうしようというのだ。どうしても斯《こ》うしちゃあいられないのか」
「随分いろいろに趣向もして見たけれど、向うに荒神《こうじん》様が付いているんでね。今夜という今夜はもうどうにもしようがないと見切りをつけて、おまえさんのところへ駈け付けた訳なんですから、その積りで度胸を据えてくださいよ」
「だが、うっかり姿を隠したら猶々《なおなお》こっちに疑いがかかる訳じゃあないか」と、男はまだ躊躇しているらしく答えた。
「それがいけない。それが未練よ」と、女は焦《じ》れるように云った。「疑いがかかるどころじゃない。もうすっかりと種をあげられてしまったんだから、うろうろしちゃあ居られないんですよ。お前さん、鈴ヶ森で獄門にかけられて、沖の白帆でも眺めていたいのかえ」
「よしてくれ。聞いただけでも慄然《ぞっ》とする。そりゃあ私だってこうなったら仕方がない。そうして、これからどこへ行く積りだ」
「駿府《すんぷ》の在《ざい》にちっとばかり識っている人があるから、ともかくもそこへ頼って行って、ほとぼりの冷めるまで麦飯で我慢しているのさ。お前さん、どうしても忌《いや》かえ」
「いやという訳じゃあないが、毒食わば皿で、そう度胸を据えるくらいならば、こっちにもまた路用や何かの都合もある。五両や十両の草鞋銭《わらじせん》でうかうか踏み出すのはあぶないからね」
「五両や十両……」と、女は呆れたように云った。「お前さん。たったそれぎりかえ。だから、さっきもあれほど念を押して置いたんじゃありませんか。嘘、きっと嘘に相違ない。お前さん、もっと持っているんだろう。お見せなさいよ」
「いや、まったく十両と纒まっていないのだ。じゃあ、こうしてくれないか。ここに八両と少しばかりある。これだけ持って、おまえは一と足さきへ行ってくれないか。わたしは一旦家へ帰って、後金《あとがね》を都合してから追っ掛けて行く。なに、嘘じゃあない、きっと行く」
「いけない、いけない」と、女は嘲るように又云った。「そんなことを云ってうまく誤魔化して、十両にも足りない手切れ金で、あたしを体《てい》よく追っ払おうとしても、そうは行きませんよ。あたしのような者に魅《み》こまれたのが因果で、あたしは飽くまでもお前さんを逃がしゃあしませんよ」
「いや、決してそんな訳じゃあないが、まったく五両や十両じゃあしようがない。いや、隠しているんじゃない。疑うなら出してみせる」
話し声はひとしきり途切れて、暗いなかで金をかぞえているらしい音が微かにきこえたかと思うと、だしぬけに床几《しょうぎ》の倒れるような物音が響いた。つづいて男の唸り声もきこえたので、半七は隣りの葭簀《よしず》を跳ねのけて出ると、出あいがしらに女と突き当った。女は転げるように往来へ駈けぬけてゆくのを、半七は跣足《はだし》になって追いかけた。二、三間のうちに追い付かれて、食いついたり、引っ掻いたりして必死に反抗した女は、とうとう泥だらけになって土の上に引き伏せられた。かれはいうまでもない、お定であった。
吉助は茶店のなかに縊《くび》られていた。お定は番屋へ引っ立てられると、もう尋常に覚悟を決めてしまったらしく、何もかも素直に白状した。
お定は以前|板橋《いたばし》で勤め奉公をしていた者で、かの石原の松蔵の情婦であった。土地の大尽《だいじん》を踏み台にして身請《みう》けをされて、そこから松蔵のところへ逃げ込んで、小一年も一緒に仲よく暮らしているうちに、男は詮議がだんだんむずかしくなって来たので、女にも因果をふくめて、一旦江戸を立退《たちの》こうとするところを、高輪で室積藤四郎の手に捕われた。それに加勢して草履を投げた伊勢屋のお駒は御褒美を賜わった。その評判が江戸じゅうに伝わると、お定は男の不運を悲しむと共に、伊勢屋のお駒を深く怨《うら》んだ。捕り方は役目であるから是非もないが、素人のお駒が要らざる加勢をしたために、男は遂に逃げ損じたのである。彼女は松蔵が死罪ときまった日に、お駒に対する根強い復讐の決心をかためた。男の死体をひそかに引き取って、自分の菩提寺にそっと埋葬して貰って、その命日にはかならず参詣していた。
相手が勤めの女である以上、かれに近寄るには伊勢屋へ入り込むよりほかはないので、勤めあがりのお定はすぐに下新造《したしん》に住み込むことを考えた。伝手《つて》を求めて伊勢屋の奉公人になってから、彼女は努めてお駒の気に入るように仕向けて、やがて姉妹《きょうだい》同様に親しくなった。彼女は松蔵の顔に投げ付けたという大切の重ね草履をお駒にみせて貰った。こうして仇に近寄る機会は十分に作られたのであるが、彼女は更にどういう手段を取るべきかを考えた。なにをいうにも人目の多い場所であるのと、自分の犯跡を晦《くら》ましたいという弱味があるので、彼女は容易に手をくだす機会を見いだし得ないで苛々《いらいら》しているうちに、彼女に取っては都合のいい相手があらわれた。それは下総屋の番頭の吉助であった。
吉助はお駒の馴染客であるので、無論にお定とも心安くしていた。心安いばかりでなく、それ[#「それ」に傍点]者《しゃ》あがりのお定の年増姿がかれの浮気を誘い出して、お駒がほかの座敷へ廻っているあいだに、時々に飛んだ冗談を云い出すこともあった。胸に一物《いちもつ》あるお定は結局かれになびいて、宿《しゅく》の或る小料理屋の奥二階を逢曳きの場所と定めていた。客のひとりを自分の味方に抱き込んで置かないと、目的を達するのに不便だということを彼女はふだんから考えていたからである。こうして先ず味方が出来た。しかもその味方が三月十二日の夜、月こそ変れ松蔵が召捕られた当日に遊びに来たので、今夜こそはとお定は最後の覚悟をきめて、座敷の引けない間に努めて吉助とお駒とに酒をすすめた。
二階じゅうが大抵寝静まった時刻をうかがって、お定はそっとお駒の部屋へ忍び込んだ。正体なく眠っている仇の枕もとへ這い寄って、そこに有り合わ
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