せた細紐で力まかせに絞め殺した途端に、そばに寝ていた吉助が眼をさました。おどろいて声を立てようとするのを彼女は制して、このことは決して他言してくれるなと泣いて頼んだ。余人でないお定の頼みに、気の弱い吉助は当惑した。彼は迷惑でもあり、また恐ろしくもあった。もし他言すれば、わたしの口ひとつでお前もきっと同罪に陥《おと》してみせるとお定は泣きながら彼を嚇《おど》した。吉助はもう頭が眩《くら》んでしまって、結局お定の指尺《さしがね》通りに動くことになった。お定は箪笥のひきだしから服紗につつんだ彼《か》の草履を取り出して、その片足を※[#「木+靈」、第3水準1−86−29]子窓から海へ投げ込んで、残る片足を袖の下にかかえて立ち去った。それから少し間を置いて、吉助はふるえ声で人を呼んだ。
こうして、復讐の目的も遂げた。犯罪の痕跡もどうやらこうやら晦ましたのであるが、お定の不安はまだ容易に去らなかった。海に投げ込んだ草履の片足を半七に発見された時に、彼女は自分の潔白を粧《よそお》うために、わざとお駒の物であることを証明したが、どうもそれでも落ち着いていられないので、さらに苦しい知恵を絞り出して、お駒とは比較的仲のよくないお浪という女をそそのかした。彼女はお浪がふだんから病身に悩んでいるのを幸いに、うまくそそのかして駈け落ちさせて、あたかもお浪がその犯人であるかのように疑わせ、事件をいよいよこぐらかそうと試みたが、その小細工も失敗に終ったらしく、半七は飽くまでも自分に眼をつけているらしいので、うしろ暗い彼女はもう居たたまれなくなった。
彼女は江戸を立ち退くについても路銀が必要であった。もう一つには、吉助があとで何をしゃべるかも知れないという不安もあるので、彼女は吉助に路銀を才覚させて、一緒に連れて逃げるつもりで、下総屋からそっと吉助をよび出して、今夜高輪で落ち合う約束をして来たのであるが、相手は思ったほどの金を持って来なかった。さりとて自分の秘密を知っているたったひとりの彼を、江戸に残して置くのはどうも不安に堪えないので、お定は不意に自分の手拭を相手の首にまきつけて、お駒とおなじように押し片付けてしまった。
「亭主のかたきを取ったら、なぜ神妙に名乗って出ない」
奉行所でこう訊問された時に、かれは涙をながして答えた。
「わたくしが此の世に居りませんと、もう誰も松蔵の墓参りをしてくれる者がございませんから」
夫のかたきを討つ……この時代に於いては大いに憐愍《れんびん》の御沙汰を受くべき性質のものであった。事情によっては或いは無罪になるかも知れなかった。しかしかれは罪人の妻で、人を恨むのは逆恨《さかうら》みである。殊に上《かみ》に対して御奉公を相勤めた伊勢屋のお駒を殺したのである。お駒ばかりでなく、吉助までも手にかけている。その罪重々であるというので、お定は引廻しの上で獄門に晒《さら》された。
「これまでにも密訴したものに仕返しをするということは時々ありましたが、それは悪党の仲間同士に限ることで、召捕りの助勢をした素人に対して仕返しをするなどというのは珍らしいことですよ」と、半七老人は云った。「殊にそれが女だから驚きます。今までの話で大抵お判りでしたろうが、わたくしは最初からお定に眼をつけていたんです。石垣の下で拾ったお駒の草履は、その鼻緒の曲がった足癖と、底の減りぐあいとで、右の足に穿き慣れたものだということがすぐに判りました。お駒が松蔵に投げたのは左の草履で、その肝腎の左の方が見えなくなって、右のだけが捨ててあるのはちっとおかしい。潮に引き残されたなら論はないが、さもなければ何か草履に縁のある……つまり松蔵に縁のある奴がお駒に仕返しをして、右の足だけをそこに打っちゃって置いて、左の方だけを持って行ったんじゃないかと、わたしはふっと考え出したんです」
「そこで、張子の虎の方はどうなんです」と、わたしは訊《き》いた。
「お駒の枕元に置いてあった張子の虎、これも松蔵になにか縁があるんじゃないかと、子分の多吉に云いつけて奉行所の申渡書を調べさせると、石原の松蔵は天保元年の庚寅《かのえとら》年の生まれということが判りました。寅年の男と、張子の虎、これもなるほど縁がある。こうなると松蔵になにか引っかかりのある奴がお駒を殺して、松蔵の位牌《いはい》代りに張子の虎を置いて行ったのじゃないかと鑑定されます。この二つの証拠が揃ったので、もっぱら松蔵にかかり合いのある奴を探索にかかりましたが、下手人《げしゅにん》はどうも外から入り込んだ形跡がない。その晩の客か、家内の者か、その判断がよほどむずかしいのですが、お定という下新造がお駒と特別に仲良くしていたというのが却《かえ》って疑いのかかる本《もと》で、もう一つには、松蔵が処刑になった後から伊勢屋に住み込んだものはお定一人しかないというのが手がかりで、だんだんその身分を洗いあげているうちに、前にお話し申したような順序で、とうとう本人を引き挙げてしまったんです。伊勢屋の仏壇にしまって置いた張子の虎は、やはりお定が盗み出したもので、ほとぼりのさめた頃にそっと松蔵の墓に埋めて来る積りであったそうです。いよいよ処刑になる時に、当人が最後の願いを聞きとどけられて、お定は紙でこしらえた数珠《じゅず》のはしに其の小さい虎をぶら下げて、自分の首にかけながら引き廻しの馬に乗せられました」
底本:「時代推理小説 半七捕物帳(三)」光文社文庫、光文社
1986(昭和61)年5月20日初版1刷発行
1997(平成9)年5月15日11刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫
校正:おのしげひこ
2000年10月19日公開
2004年3月1日修正
青空文庫作成ファイル:
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