んやりと照らしていた。
「おい、おれにも一挺頼む。あのあとをそっと尾《つ》けてくれ」
相手が相手であるから若い者はすぐに支度して、半七をのせた駕籠は小半町ばかりの距離を取りながら、人魂《ひとだま》のように迷ってゆく駕籠の灯を追って行った。前の駕籠が大木戸でおろされると、半七も下りた。駕籠屋を帰して、かれはぬかるみを足早に歩き出した。鼻緒をすげてしまうのを待っている間がなかったので、かれは大岩の貸し下駄を穿《は》いていた。
今夜はもう五ツ(午後八時)を過ぎているので、海辺の茶店は閉《し》まっていた。北から数えて五つ目の茶店の前で、下総屋の番頭吉助は立ちどまってそっと左右を見まわした。かれはいつの間にか頬かむりをしていた。
四
「ふだんと違って今の身分だから、店をぬけ出すのは容易じゃない。これでも神明前から駕籠で来たのだ」
「でもどんなに待ったか知れやしない。あたしはきっと欺されたのかと思っていたのよ。だましたら料簡《りょうけん》があると覚悟していたんだけれど……」
それが女の声であるので、半七は肚《はら》のなかでほほえんだ。かれは葭簀《よしず》のかげに忍んで、隣りの茶店の奥の密談を一々ぬすみ聴いていた。
「それで、これからどうしようというのだ。どうしても斯《こ》うしちゃあいられないのか」
「随分いろいろに趣向もして見たけれど、向うに荒神《こうじん》様が付いているんでね。今夜という今夜はもうどうにもしようがないと見切りをつけて、おまえさんのところへ駈け付けた訳なんですから、その積りで度胸を据えてくださいよ」
「だが、うっかり姿を隠したら猶々《なおなお》こっちに疑いがかかる訳じゃあないか」と、男はまだ躊躇しているらしく答えた。
「それがいけない。それが未練よ」と、女は焦《じ》れるように云った。「疑いがかかるどころじゃない。もうすっかりと種をあげられてしまったんだから、うろうろしちゃあ居られないんですよ。お前さん、鈴ヶ森で獄門にかけられて、沖の白帆でも眺めていたいのかえ」
「よしてくれ。聞いただけでも慄然《ぞっ》とする。そりゃあ私だってこうなったら仕方がない。そうして、これからどこへ行く積りだ」
「駿府《すんぷ》の在《ざい》にちっとばかり識っている人があるから、ともかくもそこへ頼って行って、ほとぼりの冷めるまで麦飯で我慢しているのさ。お前さん、どうしても
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